SHIGA1 FKT、コロナ

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6月1日から、丹羽薫さんと田口穣さんのSHIGA1 FKTのお手伝いをしてきた。
今回は、IBUKIで作ったシステムを使って、選手の位置情報を把握することになったので、そのシステム面の運用をしつつ、写真を撮影しつつ、その他必要そうなことがあればお手伝いする、という役割での参加だった。
基本的には選手のサポートチームやペーサーが揃っていたので、僕は比較的自由に動くことができたし、良い写真を撮ることが自分が一番貢献できることだと思ったので、撮影をメインにした。

そもそも、このFKTが行われるに至った経緯には、いろいろな事があった。
どういう経緯があったのか知りたい人も居るだろうし、あとから振り返ってみると、コロナという特殊な環境でどういうことが起きたかは貴重な記録になる気がするので、忘れないうちに覚えていることを書いておこうと思う。

経緯

まず最初は、昨年と同様に、シガイチのステージレースを開催することが検討されていた。
しかし、みんな去年の大会で少し疲れが出たのか、2020年大会に向けての準備はそれほど進まず、秋を迎えようとしていた。
僕の方は、仕事で新しい宿泊施設を11月末にオープンすることになっていて、オープン前後はかなりどたばたとしていて、なかなかシガイチに時間が取れない状態になっていた。

あまり動けない状態で、みんなに迷惑をかけるわけにもいかないと思い、10月頃に2020年大会のコースディレクターを務めることができない、という申し出をさせてもらった。
420kmにも及ぶコースを、選手が走れる状態に保つのは並大抵の労力ではできない役割だ。
それぞれの区間で誰かに担当者になってもらい、手分けして管理することもできるだろうが、それをまとめるにもそれなりに力が必要だし、何よりも、大会本番のゴールデン・ウィークは、旅行客がたくさんやってくる想定だったので、仕事が忙しくなる可能性があり、大会本番に現場に居られない可能性があった。
ここまで、仲間と一緒に作り上げてきたコースで、思い入れもあるし、これからも滋賀一周トレイルが発展していくことに関わっていきたいと思っている。その思いは特に変わらないが、2020年大会に限って言えば、責任を持てる状況にはなかった。

コースディレクターを引き継げる人は結局おらず、その他の準備も進んでいなかったので、この話をきっかけに、昨年と同じようなステージレースを開催するのは難しいだろう、という話の流れになった。

そこで出てきたのが、選手が自発的にFKTを行い、それをシガイチ実行委員会(以下実行委員会。実際にそのような実行委員会の存在はどこにも明記されていないが、ここでは、NPO法人滋賀一周トレイルを母体とする滋賀一周ラウンドトレイル実行委員会(的なもの)を指している)がサポートする、という案であった。

一部の選手が、ステージレースではなく、ノンストップのFKT的なイベントなら出てみたい、と言っている、という情報もあり、そのような形式であれば、あらゆるレベルの選手を想定したレースをやるよりは、準備の負担も減るだろうし、昨年とは違うパターンのイベントをやってみるのも、今後に向けて面白いのではないか、という話になった。

僕は自らコースディレクターを降りたこともあって、あまり口を挟まず議論を聞いていたし、その後実行委員会からも外れさせてもらったが、取り組みとして面白いと思った。

SHIGA1 FKTの参加者は、大々的に参加者を募るのではなく、昨年の大会に出場したか、スタッフをした人だけに絞るということで、あまり表に情報は出さずに、水面下で選手の募集ややり取りが進んでいった。

そんな中、昨年大会に出場した入江さん、池田さん、福島さんと、昨年スタッフで参加していた丹羽さん、阪田さんの5名が参加を表明した。
この5人が、ある程度自発的にサポートカーやスタッフを準備し、それを実行委員会がサポートするという想定で準備が進んでいった。

3月9日に参加者用のfacebook非公開グループが作成され、3月22日に参加予定者がアナウンスされ、この時点ではまだFKTは行われる前提で皆が動いていた。(今から思えば、比較的あとまで実施予定だったのだな、と感じる。)

コロナ

コロナの影響が、山の活動にも本格的に影響し始めたのは、確か4月上旬ころだっただろうか。
逆にそれまでは、そこまでの影響が出ること自体、想定できていなかった人も多かったように思う。
新型コロナウイルスの感染が拡大し始め、日本国内でもコロナの話題で持ちきりになり始めたのは2月くらいだっただろうか。
その頃は、閉鎖空間で行われるイベントは「密」を避けるのが難しいから大変だね。だけど山のイベントは、密にならないし、大丈夫だろう。ましてやFKTなんて、ごく少人数で行うのだから、どれだけイベントの自粛が広がるとしても、FKTが開催できないことはないだろう、と思っていた。

その後、3月12日に、UTMFの中止が発表された。この発表の中でも、「この判断はUTMFを行う上でのリスクを検討して出した判断であり、この大会が中止になるからと言って他の大会を中止にすべきだと言うわけではないので、それぞれの大会が、それぞれのリスクを適切に判断して欲しい」といった声明を出していた。

繰り返すけど、コロナウイルスが広がりはじめ、UTMFが中止になり、学校が休校になって、ライブハウスやキャバクラなども休業に追い込まれている状況でも、「さすがにFKTは感染リスクは低いし、実施できるだろう」と思っていた。関係者の多くも、思っていたと思う。

この頃に僕は、森田真生さんの数学ブックトークを聞きに行った。順番は前後するけど、3月1日のことだ。
このときは、世の中的にイベントの自粛も始まっていたが、一乗寺恵文社で予定通りイベントは行われ、50人ほどの参加者が集まっていた。
全員マスクはつけていたけど、普通に椅子を並べて、同じ部屋に集まって森田さんの話を聞いた。

話の内容は、やはりコロナウイルスを避けて通ることはできず、この世の中でどう生きていくべきか、が主題だった。
このブックトークの中で、僕が特に印象に残ったのは、「空気」の話である。
これからさらに新型コロナウイルスの感染が広がるだろう。その被害を抑えるために、慎重に行動をしなくてはいけない。
しかし、決して、他人の意見だけに流されてはいけない。空気に流されず、自分の頭で考え、自分の足で地面に立ち、自分の行動を自分で決めなくてはならない。
決して、他人の意見を鵜呑みにしたり、そのまま何も考えずにただその言葉を他人にばらまく(リツイートする)ことをしてはならない。
そのような行為が重なって、さらに「空気」が強まっていくことになる。
それはとても恐ろしいものである。

実際はもうちょっと違う内容だったかも知れないが、僕が理解し、強く意識した話は、こういうことだった。
森田さんは言明していなかったが、内田樹さんはブログの中で、そのような「空気」が、戦争のときに日本人を残酷な行動に走らせたのだと書いていた。
自分は決して、根拠も曖昧な「空気」に流されたりはしたくないし、ましてやその「空気」を強めるようなことに、安易に加担しない。
これが、僕が森田さんの話を聞きながら、自分の方針として決めたことだった。

空気の強まり

自粛ムードが強まり、「あれ?なんかおかしいな」と感じ始めたのは、4月に入った頃だった。
4月7日に東京をはじめとする7都府県に緊急事態宣言が出され、県外移動の自粛要請が行われた。
僕が一番最初に「怖い」と感じたのは、湘南の海岸にサーフィンに来ている人たちの中に、県外ナンバーの車がいる、として、県外から来ている人たちを非難している人がいると知ったときだった。
このニュースは、瞬く間に全国ニュースとなり、湘南海岸沿いの駐車場は一斉に閉鎖され、入り口に警備員が立つような事態になった。
その後も、県外ナンバーの車が来ていないか、自主的に見回る人が出始め、こうした人達は「自粛警察」と言われるようになった。

おそらく、このコロナ騒動が一段落したあとに、「どうしてあんなにもみんな躍起になっていたんだろう?」と思うだろうな、と感じた。
他人を非難している人は、基本的には正義感(コロナウイルスの感染拡大を少しでも阻止したい)で行動しているのだろうが、わざわざ駐車場を監視して県外ナンバーが居たら通報するほどの行動は、行き過ぎに感じたし、怖さを感じた。

一部の人々を、そうした行き過ぎた行動に駆り立ててているのは、まさに「空気」だと感じた。
世の中が緊急事態になっており、何よりもまず感染拡大防止が優先されるべきなのに、なぜあなたは県外に遊びに来ているのか?
日本中みんなが、そう思っているのだから、私がそれを代表して、制裁を加えます。
そのような心理なんだろうと思う。

しかし実際は、「みんな」がそう思っているわけではない。
少なくとも僕は、そう簡単に、何も考えず、「みんな」に入らないでおこう、と思っていた。
しかし、そのような自分の考えを、発言するのも怖くなる状況がどんどん迫ってきた。

湘南海岸に自粛警察が出ている、というニュースを耳にしていた頃は、まだ対岸の火事
遠く関東では、大変なことになっているみたいだね、なんて話している程度で済んでいた。
しかし、だんだんその波は、京都にも近づいてきていた。

実行委員会からの発表

4月4日、実行委員会はfacebookページで「今年のプレ大会は行いません」と発表した。
これは、もともと「昨年と同じようなステージレースは行いません」という意味の発表だったが、これを読んだFKT関係者からは、「FKTが中止になった」と誤解されてしまった。そもそも、GWに公式な大会があるとしたら、もっと前に告知があるだろうし、このタイミングで告知があるということは、FKTのことを言っているのだろう、と思われても仕方がなかった。
それはもともとは誤解だったのだが、そもそも本当に公式な大会は中止にして、やりたい人が自主的にFKTをやる、で良いのではないか?という意見が、選手側から上がり始めた。
もともとが、ある程度選手が自主的に行うという前提だったし、これ以上実行委員会の負担を増やさなくても、やりたい人が自主的にやれば良いじゃないか、という提案だった。
実行委員会はこれに乗っかる形になり、結局誤解を解かずに、そのまま実行委員会主導でのイベントは開催されないことになった。

残った選手で、「やりたい人が居たらいっしょにやりましょう」という形で、FKTを行う人を募る動きが始まった。
公式イベントが行われなくなったことで、2人は出場を断念した。
残るは3人で、GWにFKTを行う方向で検討を続けていた。

自粛要請

4月18日に、緊急事態宣言の対象地域が全国に広がり、京都や滋賀もすべて緊急事態宣言下になった。
県をまたいだ移動は自粛してください、という要請が出た。

日本山岳会をはじめとする山岳四団体が、共同で「登山自粛要請」宣言を出した。その宣言を追う形で、滋賀周辺の市町からも「登山自粛要請」が出された。
ここに来て、比較的安全だと思われていた登山にも、「自粛ムード」が高まってきた。

当初は、「密」を回避できる登山は、比較的安全なスポーツだと考えられていたが、その登山も自粛要請対象となったのだ。
その根拠は、登山は危険を伴うスポーツであり、もしも仮に登山中に事故などが起こり、病院に搬送されたりすると、コロナ対策で手一杯の医療機関に負担をかける、というものだった。
さらに、登山の前後で交通機関に乗ったり、地元の方との接触機会が発生することで、ウイルスの拡散につながる危険がある、ということも根拠の一つだった。

自粛警察は遠く対岸の火事だと思っていたら、琵琶湖沿いの駐車場もすべて閉鎖され、入り口には警備員が立っているということだった。
鈴鹿山脈の登山口にある駐車場も閉鎖された。
関東の山に関して言えば、登山口にもロープが張られ、登山道自体が閉鎖されているということだった。

あちこちでこのような状況になると、それが当たり前のように感じるのが不思議だった。
もともとコロナが拡がり始めた頃は、「登山は安全だから大丈夫だろう」と感じていた。
ウイルスの感染拡大リスクに限って言えば、そのように感じていた3月でも、あちこちの登山口が閉鎖されている4月でも、それほど変わったわけではない。
特に、人とほとんど会わない登山中のリスクは大きくは変化していなかったはずである。

では何が変わったのかと言えば、まさに「空気」だ。
「世の中でこれほど自粛が進んでいるのだから、登山も自粛するのが当然だ」という空気だ。
決して安易には、「空気」に流されないでおこう、と心に決めた自分ですら、「まあ、それも仕方ないかな」と感じるようになっていることが驚きだった。
そして、FKTの計画を進めている事自体が、何かやましいことをしている犯罪者のような気持ちになってきた。

ゴールデン・ウィークにFKTを実施する想定で準備をしていた丹羽さんも、緊急事態宣言下での実施は行うべきではないと判断し、延期することになった。
最初は延期時期を見計らっていたが、5月中旬くらいに「6月1日から実施」を想定し、スタッフやペーサーを確保していった。
丹羽さんのチャレンジを聞いて、トレイルフェストの田口さんも参加を表明した。

ちょうどその時期に合わせるように、5月21日に京都や滋賀の緊急事態宣言が解除、5月25日に全国で解除された。
山岳四団体からの登山自粛要請も取り下げられ、各自治体の登山自粛要請も取り下げられた。

恐らく、この文章を数年後に読んだら、「だったらFKTを無事に開催できたんだろう」と思われるだろう。
しかし実際は、そうではなかった。

緊急事態宣言が解除され、県をまたいだ移動の自粛要請や、登山自粛要請が解除された状況下で、丹羽さんがFKTを行うことを発表すると、さらに別の意見が出てきた。

ある夜、僕のもとに一本の電話がかかってきた。僕も信頼しているトレイルラン業界の方だ。
その方が言うには、
「ある方から連絡があり、今回の丹羽さんたちのFKTは、実施する時期が早すぎると思うので、どうにか延期させられないか」
という内容だった。
「緊急事態宣言も解除されたし、県外移動や登山自粛要請も解除されているが、なぜ延期すべきだと思われるのですか?」
と質問すると、
「トレイルランというスポーツ全体が、反社会的なスポーツだとみなされる可能性があり、そうなれば業界全体に悪影響が及ぶ」
ということだった。

僕はまず、そのまま何も考えずに丹羽さんに伝えることはしたくないので、一体誰がその要望を仰っているのかを聞いて、その方本人と話したい、とお願いした。
ご本人からは翌日に電話がかかってきて、1時間ほどお話することができた。
電話では、終始穏やかにお話ができたし、話せてよかったと感じた。
内容的には、想定外の内容は特になく、大体「こういうことかな」と予想していた範囲の内容だった。

僕は少し考えて、「お伝えいただいた内容を丹羽さんにお伝えするのは良いですけども、余計やる気になる気もしますよ」とお伝えした。(実際にそうなった気がする)
最初にお電話を頂いた方や、翌日にお話した方からは、「近藤さんはどういうスタンスなんですか?」と質問された。

僕の答えはこうだ。

「まず、山に入るには、常に死ぬリスクがあると思っている。
ある程度のレベルで登山なりトレイルランニングをする人は、そのことを自覚しているべきだと思うし、丹羽さんほどのレベルの人ならば、当然それは分かっているはずだ。
そんな人=要するに普段からある程度死も覚悟している人に、「山に入るな」と言っても仕方がないと思っている。
もしも本人が「やる」と言うなら、僕は止めるつもりはない。
ただ、やるのであれば、なるべく安全にできるように自分ができる努力をするつもりである。」

そのように答えた。

僕は3年前に、親しかった友人を山で亡くしている。
彼女はそれまで続けていた仕事を辞め、もしかしたらちょっと実力を越えていたかも知れない壮大なチャレンジに挑んだ。
そしてチャレンジが始まって2ヶ月後、帰らぬ人になってしまった。

彼女と親しかった共通の友人たちと一緒に、悲しみに暮れ、僕はしばらく山に行く力が沸かなくなってしまった。
僕が山にいる時は今も、心のどこかにその悲しみが内包されている。
悲しみは忘れ去れるものではなく、「死」もまた山の一部としてずっとそこにある。

大きな悲しみはしかし、大きな自然の一部として、山や自然に対する想いにより深みを与えてくれた。
よくよく考えてみれば、僕たちはもう少し、死ぬことに対して自覚的になっても良いと思った。
必ず人間は死ぬ。いずれどこかで必ず死ぬ。
その死をどうやって迎えるか。それまでの時間をどのように過ごすか。その中にあるのが人生だ。

死を覚悟して山に登る人は、死ぬリスクと山で得られる生の充実を天秤にかけ、山で得られる充実を選択しているわけである。
それは、コロナウイルスがあろうがなかろうが、普段からそうであって、むしろ一定レベル以上の山に行く人はそうあるべきだと思う。

これはもはや、生き方の問題である。
どのようなリスクを取り、どのような人生を生きたいのか。
それは本人にしか決められないことだし、他人がとやかく言えるようなことではないだろう。
リスクを一切無くすのが人生の目的なのであれば、車の運転もしない方が良いし、家から一歩も出られなくなる。
しかし、そんなものは僕は人生だとは思わない。

僕の友だちが亡くなった後に、「彼女の挑戦を止めさせるべきだった」と話す人が何人か居た。
僕は、死んだ後にそんな話をするくらいなら、行く前に本当に止めるか、何も言わないか、どちらかだろうと思った。
死んでしまってから評論家みたいなことを言って、一体何になるというのだ。
僕は彼女の挑戦を知ってからの行動を振り返り、やっぱり、彼女が本気で行きたいと思っていたのなら、送り出すしか無かっただろう、と思った。
そうやって挑戦した彼女の生き方を、死んでもなお、肯定したい。
彼女の力を信じて送り出した自分のことも、肯定したい。

もちろん、本人が全く気づいていない危険性があって、それを僕が知っている、というような状況なら話は別だ。
できるだけ早くその危険性について伝えて、対策を取るなり諦めるなりしてもらうだろう。
しかし、僕が知っているリスク要因が、本人も十分に分かっていることしか無いのであれば、それ以上に僕から伝えるべきことは無いと感じた。
だから僕は、そのようなやり取りがあった、ということだけ伝えた。
別に止めることもしなければ、勧めることもしなかった。
丹羽さんに話してみると、同じ話はすでに別のところからも伝わっていたようだった。

僕はただ、できるだけ安全な取り組みになるよう、協力をした。
コースの整備は、畝本さんや、丹羽さん自身が積極的に行い、迷いやすい道の草木を刈り込み、マーキングや反射テープをつけていった。
丹羽さんは、試走の段階で、すでに滋賀一周どころか、1周半くらい回っていたのではないだろうか。
僕もたまに整備に駆け付け、藪を払ったり、マーキングを手伝った。

リスクに関して言えば、コロナに関するリスクよりも遥かに、道迷いやケガ、遭難のリスクの方が高い。
FKTを安全に終わらせるためには、コロナ以外にたくさんやるべきことがある。

そうそう、僕の仕事の話に戻ると、当初春からGWにかけて忙しくなるだろう、と思っていた仕事は、コロナのせいですっかり状況が変わってしまった。
宿泊客の予約がぱったりと途絶え、本来忙しくなるはずが、全く違う状況になってしまった。
ビジネス上は大打撃だったが、ことFKTに関して言えば、随分と時間に融通が効くようになった。

そこで僕はまず、良いGPS端末が無いか探し始めた。
しばらく探していると、まさに今回の取り組みにぴったりの端末が見つかり、メーカーの方と連絡を取り合ってFKTに使えるようにしてもらった。
その端末を使って、選手とサポートの位置情報を把握できるシステムを急ピッチで開発し、間に合わせた。

また、携帯電話が通じない区間での通信手段を確保するために、無線機を買い揃えた。
ついでに、アマチュア無線3級の資格も取った。

結果的に、このGPS端末を使った位置情報システムは大活躍したし、無線も活用できたと思う。
丹羽さんと田口さんのFKTチャレンジは、残念ながら田口さんが途中でリタイアとなってしまったが、丹羽さんはFKTを樹立して完走し、二人の選手に大きな事故はなかった。
取り組みは成功したと言って良いだろう。

SHIGA1 FKTを終えて

僕が何を一番言いたいかというと、コロナのような非日常的な環境下において、普段は知ることができない人々の側面が見られる、ということである。
誤解がないように強く言っておきたいのは、僕は誰かを非難したいのではない。
人にはその人の考え方があるし、特にその考え方を否定したいとは全然思っていない。

今回の出来事を通じて、多くの人が葛藤と行動の選択をしたと思う。
選手がFKTを行うべきかどうか考え続け、決断をしたのはもちろん、それをサポートする人も、応援しようとしていた人も、止めようとした人も、だ。
それぞれの人が、考え、葛藤し、これが正しいのだろうか、と思いながら、自分の行動を選択したはずだ。
僕はその葛藤と、選択した行動に、その人の生き方が現れたと思っている。
FKTを見送る人もいれば、実行する人もいた。
全力でサポートした人もいれば、協力を控えた人もいた。
選手を必死で止めようとした人もいた。
ネットで応援する人もいれば、職場では外出を控えるよう言われているのにこっそり応援に駆けつけた人もいた。
それぞれの行動に、葛藤があったはずだし、その行動に僕はその人の生き方を見た気がする。

人によって考え方、生き方が違うのは当然なのだが、今回のコロナ、そしてFKTを通じて浮き彫りになったのは、普段の平和な生活では分からない違いがあるということだ。

政府が「自粛してください」と言えば、自粛を促すのが一番の目的になる人もいれば、どうにか自分なりに考えて安全性を確保し、活動をする方法を見つけようとする人もいる。

僕は活動する人を見て、できるだけ安全になるよう力を尽くし、手伝いをした。
自分はそういう考え方の人間なんだ、と知ることができた。

そして活動した人によって、歴史は綴られていくのだと思った。

僕が怖いと感じたのは、例えばこのブログを、1ヶ月前は決して書けなかったことだ。
FKTを手伝っていることを、怖くて書けなかった。

幸い、日本での感染拡大は落ち着いたため、徐々に日常生活が戻ってきている。今なら大丈夫だろうと思ってこの文章を書いている。
しかし、1ヶ月前には正直、書く勇気はなかった。

もしも、コロナの感染が収まらず、あと半年、1年間と期間が長引いていたら、一体どれくらい重苦しい世の中が続いていたのだろうか。
その渦中にいると、なかなかその異常さが分からない。
しかし、こんな内容ですら公開できないような状況が、ほんの1ヶ月前、この世界で実際に起きていたのだ、ということを、僕は忘れないでおこうと思う。

誰が良いとか悪いとか、そんなことを言うつもりはないが、なかなかお目にかかれない環境の中で、誰がどのように考えて行動し、自分はその時何を考えたのか。どう動いたのか。

忘れないうちに記しておいても良いだろう。
コロナとFKTが、自分を知るきっかけ、自分と山の関係、周りの人たちのことを知るきっかけを与えてくれた。
ありがとう。

イベントの写真はIBUKIのfacebookページで


自分に出会おうとした君に

新穂高温泉からスタートして、穂高岳をぐるっと一周するコースを、1回で走りきれないかと思ってるんですよね」
と尾崎が話しているのを聞いたのは、確か去年くらいだった気がする。

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笠ヶ岳から上って、双六山荘から槍ヶ岳を経て、大天井岳常念岳蝶ヶ岳と縦走し、一度上高地に降りて、最後は焼岳を越え、また新穂高温泉に戻ってくる、という一周コース。確かにちょうどうまく一周できるし、日本の山岳コースの中でも、屈指の景色が楽しめる名ルートだ。ただし道は険しい。

その時は、
「そんなメチャクチャなコース、行く人がいたらすごい」
と思いながら、自分が行くことなんて想定していなかった。

登山をする感覚から言えば、このコースを一度も止まらずに走る(歩く)というのは、ちょっと考えられないルートである。
距離的には70kmほどで、トレランレースで走る範囲に入ってくるのかもしれないけど、さすがに3000m級の稜線である。
自然条件や道の険しさは、トレランレースとは訳が違う。

この夏に、山の友達が一人、亡くなった。
一緒に山にも登ったし、トレランレースにも出た事があるいちごちゃんだ。
このブログにも登場してる。

彼女は、半年近くかけてアメリカのロングトレイルに挑み、渡渉に失敗して流されてしまった。
自分の周りにも、共通の山友だちが多かった。
出発前には、みんなで集まって壮行会したんだ。
まだ3ヶ月前だよ。

広島県で行われた葬儀に向かうために、その友人に声をかけ、一緒に車で向かった。
行きも帰りも、彼女の思い出話を続けていた。
みんなの心の中にある彼女に会うことができた。

トヨタレンタカーで借りた7人乗りのハイブリッドカーで、朝6時から運転して広島に向かい、
レンタカー屋が閉店するまでに京都に帰ってきた。

家に帰っても飲む相手がいないメンバー(=尾崎、山本、近藤)で、「一杯やろう」ということになった。自然な流れだった。
近くの、南極観測隊の料理を作っていたというシェフのいる居酒屋に入り、山の話をしているうちに、「この夏はどこに行くのか」という話になった。

そこで尾崎が、「穂高一周に挑戦する」という話をし始めた。
いよいよやるのか、あれを。
でもまだ、達成していなかったんだな。

「何時にスタートするか、迷うんですよねえ。夜のつらい時間を、どのタイミングで迎えるべきか」
などなど、現実性のある話を聞いているうちに、だんだん興味が湧いてきた。

本当は南アルプスを縦走する予定だった山本さんが、「僕も行こうかな」と言い出した。
僕は尾崎の足を引っ張るのが嫌だったので躊躇していたけど、そういうことなら、と、「山本さんが行くなら僕も行く」と言った。

「じゃあ3人で行こうか」ということになって、あとはいつにするだの、どれくらいの装備を持っていくだの、どんどん話が進んでいった。

最初に聞いた時は、まさか自分が、と思っていたんだけど。
アンドラで2500m級の山を110km走れたのも大きかった。確かに、やればなんとかできるかも。
そしてまた、双六山荘は、はじめていちごちゃんと出会った時に、おかしな踊り(確か「晴れの舞い」と呼んでいた気がする)を披露された思い出の場所でもある。
こうやって、彼女と縁のある3人で、長い間一緒に、彼女と縁のある山を歩くのは悪くないと思えた。

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問題は、僕のコンディションだ。
アンドラから帰国して以来、日本の暑さに完全にやられてしまった。
もちろん、最初はレースの疲れがあった。
予想したとおり、帰国してからどっと疲れが出た。そして夏バテ。
しばらく、全く走る気にもならなかった。もちろん山にも行けていない。
そんな時に、彼女が逝ってしまったのだ。

自分でも、一体何をしていたのかよく覚えていない。
とにかく毎日、ぼんやりと時間が過ぎていた。
こんな状態で高い山に行くのは、どう考えても危険である。
さすがにもう少しシャキッとしないと、暗い隙間からやられるかも知れない。
短い距離ならまだしも、長い距離で、ギリギリの状態になってきたら、弱い部分から確実に入り込まれる。
尾崎と山本さんと3人で行けば、もちろん支え合えるけれども。
それでも保てるかどうか、ぎりぎりのところだな、と思った。

直前まで迷い続けた。
というか、どちらかというと「これはやめておいたほうが良い」とずっと思っていた。危なすぎる。
どうやって彼らに、「やっぱりやめる」と切り出そうかと思っていた。

直前に東京に出張して、こちらも気の重かった用件を済ませて、少し軽くなった心で新幹線に乗り、ビールを片手に車窓を眺めていた時に、はじめて「行っても良いかもな」と思えた。

週末までにやるべきことをすべて終わらせ、あとは山の日の三連休を迎えるだけ、という状態になった時に、初めて少し、「楽しみだな」と思えた。ぎりぎりだった。

もう一度「山に行きたい」と思えるまでに、アンドラから1ヶ月が過ぎていた。

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笠ヶ岳に登るクリヤ谷は、標高差1900mを一気に登る。長い。
それだけじゃなくて、雨に濡れた草木から水分がどんどん伝わってきて、いつの間にか靴の中がびっちょりになってしまう。
雨は降っていないのに、足がふやけ、結局ここでできた小さな靴ずれが水ぶくれになり、後半僕を悩ませた。
ほんの少しの違いが、後々になって大きくなってくる。

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笠ヶ岳の頂上に着いてもガスで展望はなく、「とりあえず1つ登ったな」という感じで稜線に入る。
森林限界を越えると、ようやくアルプスらしくなってきて、歩きやすくなる。

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一度雨がザーッと降ってきてカッパを着る。
冷たい雨で、オーバーグローブも着用。持ってきてよかった。

しかしその雨もすぐに止み、次第に雲が切れてくる。
いよいよ大パノラマが見えてきた。

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天気が良さそうなタイミングを狙ってきたとは言え、ちゃんと晴れてくれるとやはり嬉しい。
雲の隙間から槍ヶ岳が姿を現し、続いて穂高岳が見えてきた。
槍ヶ岳が妙に近く感じる。

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弓折岳を越え、双六山荘へ到着。懐かしの場所である。
ここは生ビールが飲める。飲みたい誘惑にかられるが、ここで飲んでしまえば、終了するだろう。
ぐっとこらえ、カレーを1.5杯食べた。
1杯じゃ足りないので、尾崎とわけっこしてもう一杯食べた。

小屋で大石由美子さんを見かけた。西鎌尾根に入ると、ノースフェースの小林慶太さんとすれ違った。
さらに進むと、アンドラでもお会いした野間陽子さんと石井さんともばったり。
僕は今回、アンドラの参加賞ジャージを着て歩いていたので、石井さんと出会うなり、
「あれ、アンドラに出られていた方ですか?」と声をかけて頂いた。

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「はい。Miticに出てました。そしてユーフォリアに出ていたお二人のことは知ってます」というところから、記念撮影。
また今月末には、モンブランでPTLにも参加するし、来年はユーフォリアで完走を狙う、と仰っていた。タフだ。

この区間、やたらと著名人に遭遇する。
そのたびに、ちょっとテンションアップ。
しばらく、すれ違った人の話をして、会話も弾む。
ということで、「著名人エイド」と名付けてみた。
(が、その後は誰とも遭遇せず)

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休憩中に、「西鎌尾根ってなんか好きなんですよね」って話したら、「僕もです」と山本さんが同意してくれた。
ですよね~。

あの、険しい感じとか、だんだん槍に向かって詰めていく感じが良いのかな。なんかテンション上がる。
そのせいか、槍が近付いてくると、いつの間にか僕のペースが上がっていたみたいで、「近藤さん、早くなってますよ」と後ろから声が。
ごめんなさい、止まれません。槍ヶ岳が僕を呼んでます。

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槍ヶ岳の肩に到着。2回めの補給。カップラーメン食べた。
営業中に着けて良かった。

「西鎌尾根に比べると、東鎌尾根って、ちょっといまいちですよね」という点でも山本さんと合意。
特に下りは、なんかがちゃがちゃしている印象。

一度下りきって、西岳への登り返しが急。岩の急登とか、ハシゴまで出てきて、めっちゃ急。
いよいよ疲れも出てきた。日も暮れてきた。さて、いよいよ、勝負どころっす。

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「ただ今の疲労度、30です」
「そろそろ70です」
とか、100点満点で疲労度を言い合いつつここまで来たけども、
ここに来て山本さんが、
「疲労度1000行きました」
と言い始めた。
いつのまに1000点満点になったんですか笑。

しかも1000って。まだコースの半分行ってないんですけども。
そうそう、山本さんは、まだオーバーナイトを歩き通したことがないらしく、さらに睡眠不足に弱いので、
「どこかで必ず寝ます。」
と最初から言ってた。
「ツエルトも持ってきたので、その時は僕を置いていってください」とのこと。

まあ無理にとは言わないんですが、僕も山本さんが降りるんなら、降りる気満々ですからね。笑
だけど僕はツエルトは持ってないんで、小屋で寝かせてもらうか、山本さんのツエルトに潜り込むか、どちらかです。
そういう時のために、ダウンジャケットは持ってきた。
一人で途方に暮れないためにも、誰かが寝ると言いだしたら、絶対僕もそれに添いますから。
そういう覚悟を決めてかかってますから。

という変な覚悟を心に決めつつ、後ろから着いていく。
前に立つと、どうにもペースを上げてしまうので、ほとんど後ろからついていった。

ヒュッテ西岳に辿り着くと、外で涼んでいたおじさんから「どこまで行くの?」と尋ねられた。
「大天井から常念を越えて、新穂高まで。夜通しで。」と説明すると、
「え?」という反応。
まさに空いた口が塞がらない、という感じで、苦笑されていた。
分かります、その気持ち。
僕だって、普通の登山で来ていたら、同じ反応しますから。

まさにここから夜に入る、というこのタイミング、一番信じられない感じがある。
「本当に行くの、ここから?」っていう。
「もう暗くなるよ。まじで?」って。

でも行くんだよね、これが。そういう旅だから。

大天井に向かうこの区間が一番やばかった。
天気が悪化して、あたりはガス。
展望もないし、真っ暗になってくるし。寒いし。
道もこれと言って変化はないし。
体力的にもいよいよつらくなってくるし。

山本さん、いよいよ1000超えちゃったんじゃないかな、と思いながら、
「山本さん、いまいくつですか?」
って聞いたら、
「今ねえ、70くらいです。」
って。
え?まさかの復活??確かに足取りが軽そう。ちなみに、尾崎はずっと安定してる。

自分もしんどいので、人のしんどさを聞いて安心しようと思っていたのに、かなりショック。
こんなにしんどいの、僕だけ?がびーん。

いよいよ来た。弱いところから、入り込んでくるやつ。
暗闇を、ぼてぼてと歩いていると、だんだん心がマイナスの方向へ向かい始めた。
最近ちょっとぼんやりしていた時の、あのモードに。
ああ、だめなんだよなあ、そっちに行っちゃあ。
分かっているんだけど、止められない。
はあ、ってため息が出そうな、あれ。

仲間と一緒なら、乗り越えられるかも、って思ったんだけどなあ。
やっぱりだめか。ここまでなのか。
きつい。

どんどん落ちていって、いよいよ「これはもう続けられないな」という気がしてきた。
こんな状態で、とてもじゃないけど、新穂高まで行ける気がしない。
一回寝るしかないべ。

大天井の山小屋で、朝まで寝て、明るくなったら上高地まで行って帰ろう。
それにしても、力が出ないや。

そういうところまで、落ちた。気持ちが。
大天井ヒュッテまで辿り着くと、「ちょっと横にならせて欲しい」と言って、
前室のベンチに、仰向けになった。
ちょっと何も考えられない。

ところが、宿の方が出てきて、「ここで何してるんですか」と険しい表情。
「勝手に入ってくるな」なのか、「こんな時間に行動するなんて非常識だ」なのか、分からないけど、とにかくゆっくり寝ていられる状況じゃないので、退散。

これでもう、完全に落ちました。底まで。
歩けません。

しばらく進むけど、全然歩けないので、諦めて座り込む。
よく考えたら、ここ2時間くらい補給してなかったかも。
ふと思いついて、ジェルを2つほど流し込む。
ヘッドライトも消して、空を見上げてみたら、満天の星空。天の川まで見える。
わお。なにこれ。すごい。

しばらくしたら、糖分もいきわたったみたいで、少し身体が暖かくなってきた。
そうか、お腹が空いていたのか。

やっと歩けるようになってきた。

大天荘に辿り着く。
最初はここで、朝まで眠ってやる、って思ってたんだけど、玄関に入って少し休んでいたら、また「行くか」という気持ちになってきた。
ここから面白いところでしょ。

何が面白いかって、自分に出会えるところでしょ。
自分の弱さ。

こういう時に、どういう弱さが出てくるのか。
それと付き合うことで、なぞれる感じがある。
夜になって、お腹が空いたら、ちょっと悲しくなってきて、自信も無くなってしまうんでしょ。
でも、食べ物食べたり、星を見上げたり、仲間と励まし合ったりしながら、乗り越えたよね、それ。
みたいな。
越えてみて初めて、知れる自分があるでしょ。
そういうのにまた、会いに来たんじゃないのかな。

いちごちゃんは一体、何に会えたんだろうな。
怖かったろうな。寒かったろうな。
だけど、自分に出会えたんじゃないかな。
そのために、行ったんじゃないのかい。

さっきまでは、僕よりはるかに元気そうだった山本さんが、今度は少し疲れ気味。
「また1000まで行きました」って言ってる。

「ひとまず常念小屋まで行きましょう。そこまではほとんど下りだし。そこでどうするか考えましょう」
と尾崎が言い、大天荘を後にする。
標高も、少し下げたほうが楽になるかもしれない。

夜空の中を歩き続けた。
途中で立ち止まって、またライトを消し、夜空を眺めた。
満天の星空だった。

しばらく眺めていると、流れ星が流れた。
1つ、また1つ。
「あ、また流れた」と3人で見上げていた。

友がいるって、幸せなことだ。

常念小屋まで辿り着くと、
「僕はここで朝まで眠ります。」
と山本さんが言い始めた。

ここまでの道のりでも、少し遅れがちだったし、後ろで一人で歩きながら、そう心に決めていた様子だった。
「このまま無理に行っても、またどこかで眠くなると思うし、足も引っ張ると思う。二人で行ってください」
と言う。

「ひとまず、1時間くらい眠りましょう。どっちみち僕たちも仮眠を取りたいですから。それからどうするか決めましょう。」
と仮眠。
2時間弱くらい眠った。(なかなか眠れなかったけど)

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時間は午前2時。さてどうするか。

尾崎は、
「(当初は徳本峠まで行ってから上高地に降りる計画だったけど)蝶ヶ岳から降りるルートに変更して、一緒に行きましょう。ゆっくりで良いので。ここまで来たら、最後まで一緒に行きましょう」
と話してる。

山本さんが僕に、
「近藤さん、僕を置いて、徳本峠まで回れたほうが良いんじゃないですか?」
と聞いてくるので、
「徳本峠まで行けるより、山本さんと一緒にゴールできる方がずっとうれしいです。」
と答えた。
迷わずはっきり答えた。

山本さんはもう、かなりつらそうにしていたけど、
「じゃあ行きます」
と体を動かし始めた。来た。これですよ。抜けますよ、壁。

「途中で多分ビバークすると思いますが、その時は先に行ってくださいね」
と山本さんが言うので、
「分かりました」
と言いながら出発。
そうはならないと思ってたけど、それは言わず。

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真っ暗の常念岳を、ゆっくり登って行く。
2時を過ぎると、他の山でも行動を開始する人が現れる。
なんと、常念岳から、槍沢を下り始めた人や、東鎌尾根を進む人などのヘッドライトが見えた。
すごい。人が見える。
今この時間、歩いている人がいる。
あそこにも、あそこにも。

そういえば、
「夜のなかを歩みとおすときに助けになるのは橋でも翼でもなく、友の足音だ。」
って、ベンヤミンが言ってたな。
友の足音。
まさにその通りだ。

あの稜線にも今、歩いている人がいる。
それがまた、元気のもとになった。

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長い時間をかけて、常念岳の上りと下りをクリア。
岩が多くて、下りも苦労する。

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下りきった辺りで、空が明るくなってきた。
雲海の中から、見事な日の出だ。

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いよいよ、朝だ。
夜を越えたぞ。
今日は暑くなりそうだ。

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樹林帯区間を抜けて、蝶槍に登ると、槍穂の絶景が見えた。
最高の景色。
もう眠くない。

清々しい風と景色に、元気をもらう。

蝶ヶ岳で和地さんと遭遇した。
ここで槍穂の眺望ともお別れ。

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長塀尾根の長い下り。
尾崎が早い。
全く走らない。ずっと歩いているのに、早い。
そう言えば今回、一度も走っていない。
どんなに緩い下りでも、ずっと歩いてる。
もはや、トレランじゃない。
なんていうの、こういうの。
どうでも良いか、名前なんて。

やっぱり登山慣れなのかな。
こんなに下りの歩きが速い人はじめてみた。
どうやったらそんなふうに下れるんだ、と思って、尾崎に必死でついていく。

「下りきったら、徳澤園でソフトクリーム食べましょう」
って言ってたので、ソフトクリームのこと考えながら。
しかし長い。

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下りきったら、すっかり昼近くになってた。
ソフトクリーム絶品。
ついでにカレーも食べる。

さて、上高地。ここまで来たら、あとは焼岳一つ。
ゴールも見えてきたんじゃないか。しかも3人で。

ちょっと、「俺たちやれるんじゃないか」感が一瞬出たんだけど、
ここからの平坦路で想定以上の苦戦。

観光客が家族連れで歩いているような道なんだけど、つらい。。
とにかく眠い。まっすぐ歩いていられない。
平坦な林道を歩きながら、気づくと目が閉じている。
そして暑い。上高地って避暑地じゃなかったっけ??

だめだ、つらすぎる。
ようやく明神館に辿り着いて、たまらず「ちょっと仮眠しましょうか」ということに。
やっぱりみんな眠かったんだ。

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突っ伏して、15分ほど仮眠。眠すぎる。

再び歩き出すけど、やっぱりつらい。暑い。
河童橋を越えてからも、長かった。
焼岳の登山口に辿り着く頃には、ふらふら。
気温は30度くらいあったと思う。
暑いのはダメなんです。

なんだかもう、熱中症のような感じになって、身体がフラフラする。
大丈夫かな。焼岳越えられるかな。
「ここまで来たら、さすがにゴールできるだろう」って思ったのにな。
ひとまず、水分不足が心配なので、多めにポカリを買って、焼岳に入る。

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林道を離れ、登山道になると、急に空気が変わった。
日陰に、気持ちのよい風が吹く。
ああ~、こうじゃないと。
良かった、これならなんとか行けるかも。
尾崎が頭に水かけてくれた。

少し足がふらつくし、前の2人から少し遅れそうになるけど、歩くことはできる。
息がすぐに乱れて、やたらと呼吸が荒くなるけど、しっかり息をして前に。
ここもなかなかの急登が待っているけど、なんとか焼岳小屋に到着。

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山本さん、全然元気じゃないですか。眠ってもいないし。

さて、下ってゴールだ。さすがにここまできたら、ゴールできるでしょう。

下りはまた、尾崎の早歩き。
今度は2人とも、必死で着いていく。

舗装路に出て、今回はじめてのラン。
駐車場まで走って、ゴール。

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34時間かかりました。
距離70km、累積標高は約6200m。

良かった。3人でゴールできた。
それが何より。

だって、ね。
今回は、3人でゴールすることに、意味があったと思ってる。
そもそもここに来たのも、いちごちゃんが連れてきてくれたようなもんだしね。
仲間のことを、思う旅だったからね。
生きてる人、死んじゃった人。
常念岳の麓には、同じくいちごちゃんの山仲間の、池田さんとときちゃんもたまたま来てたって言うしな。
そういう集いだったのかも。

みんな、山が与えてくれたことだから。
命を奪うこともあるし、かけがえのない縁をくれることもある。
大きいよね、山。
それに比べると、弱いよね、人間。
でもそれがまた、愛おしいよね。

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