富士山100マイルチャレンジで、はじめて100マイルを完走しました

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4月23日11時にスタートした富士山100マイルチャレンジに参加。人生初の100マイル完走を果たすことができました。

事前のレースプランでは、35時間弱のAプランと、それより遅いB、Cの3プランを作成していました。一時、一番遅いCプランよりもさらに1時間遅れる状態になりましたが、その後回復して挽回し、結果的には34時間51分と、Aプランと1分差でゴールできました。

一番速いプラン通りのタイムでゴールでき、自分の中では大きな達成感を味わえました。

そんなめちゃくちゃ早いタイムではないですが、半年前には、体重が75kgに増え、100マイル完走なんて想像できない状況だったことを考えると、半年間の取り組みは大成功だったと言って良いと思います。

せっかくなので、ここまでのことをまとめておこうと思います。

UTMFへのエントリー

いつかは100マイルを完走してみたい、という思いはあったものの、2017年にアンドラウルトラトレイルのMitic 112kmを完走して以来、なんとなく「やり遂げた感」が出て、積極的に長いレースを目指そう、という気持ちが減ってしまっていました。

一応ポイントが有ったので、UTMFにはエントリーするものの、毎回抽選で外れ、そもそも出場権も得られない、という年が続きました。そうこうしているうちに、仕事やプライベートに時間を取るようになり、たまに趣味でトレランに行くくらいで、何か目標に向けて長い距離を走り込む、ということは減っていました。

アンドラに出た頃に比べると、いつの間にか体重が10kg以上も増えて、75kgに達する有様に。とてもじゃないけど、100マイルを完走できるような身体ではなくなっていました。

UTMF 2020はエントリーすらしていなかったんですが、コロナで中止になり、周りの人が残念そうにしているのが気の毒でした。

2021年大会も開催は難しいだろうな、と思っていたら、秋に開催が発表されて、しかも規模を縮小せずに、2400人規模で開催する、と言うので、この時は大会主催者の意気込みを感じました。

日本で一番人気の高いUTMFが、コロナで難しさはあるだろうけど、それでもやる、という意志を通して、大会を開催することで、日本の他のレースや、ランナーの活動を後押ししていくだろうし、そういう復活の狼煙みたいな雰囲気に惹かれたのか、ふと、「今回はエントリーしてみよう」と思ってエントリーボタンを押しました。

それに、やっぱり、「一度くらいはUTMFを完走したい」という気持ちがありました。日本で一番人気のある100マイルレース。なんだかんだ言っても、華やかで、誰もが知っている大会を、一度くらいは完走しておきたい。でも、今年はもう46歳になるし、ぐだぐだしていると完走できる時間も減っていってどんどんチャンスが無くなっていくのではないか。あとから「あの時に完走しておけばよかった」と後悔するくらいなら、できる限りの準備をしてちゃんと挑戦しておいた方が良いだろうと思いました。

UTMFの当選が発表されたのは12月4日でした。コロナでエントリー者数が少なかったのか、意外とあっさり当選して、周りにも当選した人がたくさんいました。知り合いがたくさん当選したので、一緒に大会を目指していく雰囲気ができてきました。

100マイルの練習・丹羽薫さんから学んだこと

4月末の大会に向けて、期間は5ヶ月。100マイルは、ろくに練習もせずに走り切れるようなものではないので、ちゃんと練習を積まないといけません。練習を進めるに当たって、僕はこれまでとは違う考え方で挑もうと思っていました。

僕は普段から、丹羽薫さんと仲良くさせてもらっています。丹羽薫さんは、言わずと知れた日本のトップランナーで、UTMBでは4位に入るし、UTMFでも日本人最高位を獲得するようなランナーです。同じ京都に住んでいることもあり、トレイルランを始めてしばらくしてから知り合い、それから一緒に走りに行ったり、チームチョキに入れてもらったりするうちに、話す機会が増えました。

そんな薫さんと一緒に走ったり話しているうちに、ふと、「僕が今までやってきたトレーニングは、100マイルのためのトレーニングとは根本的に違うものだった」と気付きました。100マイルで完走を目指すなら、トレーニングに対する考え方を一度大きく変える必要があると気付かされました。

100マイルのためのトレーニングと言っても、いろんな考え方があるだろうし、どれか一つが正解というわけでも無いでしょうが、少なくとも、薫さんは結果を出しています。日本で一番良い結果を出している人がすぐそばにいるのだから、まずはその人の言うことを全部信じて、その通りにやってみるのが一番だと思って、いつも話を聞いていました。

薫さんはよく、「一緒に走りに行きましょう」と誰かを誘います。そうすると、だいたい相手の人は「いやいや、薫さんのペースになんかついていけませんから」という返事が返ってきます。その時に薫さんは、いつも「いやいや、私は100マイルペースなんで、ゆっくりですよ」と言います。

そんなことを言われても、ゆっくりなわけがない、と思うのか、それで辞退する人が多いのですが、そういう人はおそらく、薫さんが謙遜でそう言っていると思っているのだと思います。日本人がよく言う、「私なんて全然遅いんで」というやつです。本当は速いのに、口では謙遜で「自分は遅い」と言っているんだろう、と思われているのでしょう。

実は僕も最初はそう思っていました。それでも、せっかくの機会だから、と一緒に走りに行くうちに、薫さんは別に謙遜で「私はゆっくりなんで」と言っているのではないことに気付きました。誤解を恐れずに言えば、薫さんは「本当にゆっくり」なんです。これは、意外と多くの人が分かっていないことなんじゃないかと思います。でも、実際に走ってみると、特に最初は、薫さんに難なくついていけるんです。だから、いつもおしゃべりしながら楽しく走り始められます。(あとで泣きを見ることになるわけですけど笑)

まあ、トレイルランをしたこともないような人からすれば、もちろん十分速いペースなんですが、それなりにトレーニングをした男性ランナーが、2−30kmで力を出し切るようなペースに比べたら、本当にゆっくりなんです。

じゃあなんで薫さんがあんなに100マイルレースで強いかと言うと、そのペースが落ちないからなんです。ペースが落ちないし、エイドなどで無駄な時間も使わないし、ずっとそのペースで最後まで崩れずに走り切ることができるからなんだ、ということに気付き始めました。

薫さんは、自分のことをよく分かっているんです。100マイルもの長距離を、一定ペースで走り続けるには、どれくらいのペースで行けば良いのか。1年に何回も100マイルレースを走りながら、自分の体がどれくらいのペースなら動き続けられるのかを知り、そのペース以上でも以下でもない、「100マイルペース」を守ることができるから強いんだ、ということが、一緒にいて分かってきました。

そして「100マイルを走り続けられるペース」というのは、普段の短距離トレランから比べると、驚くくらいゆっくりなペースである、ということが分かってきました。

そのことを頭では分かっていても、それなりに速いペースで走り込んでいる時には、実はなかなかトレーニングで実践に移すのは難しいものです。つまり、100マイルレースだけを目指すのであれば、ずっとゆっくりなペース=「100マイルペース」で練習をすれば良いのですが、それ以外にも普段は30kmのレースに出たりだとか、友だちと気持ちよく山を駆け抜けたりとかするもんです。

それに、毎回50kmとか長い練習ばかりするわけでもないので、例えば20kmだけ走るのなら、20kmで体力を出し切るようなペースで走った方が練習の効果も上がるだろう、と思うのは当然で、せっかく時間を取って練習をするので、全力で走りきろう、と、かなりハイペースで普段走ることが多かったのです。

最近はStravaのセグメントで順位も出るので、「この上りでいっちょ自己記録を更新してやろう」とか、「ランキングで上位を狙ってやろう」みたいに、区間を意識して追い込んだりもしてしまいます。

そうやって、短い距離を追い込む練習をするのもまた気持ちがいいし、「頑張った感」も出るし、それ自体全然間違ったトレーニングではなくて、短いレースにはとても有効なトレーニングでもあるわけです。

だから、僕はこれまで、短い練習の時はそれなりに追い込んで走り、長いレースに出る時はゆっくり走れば良い、と思っていました。ゆっくり走るなんて、いつでもできるだろう、と思っていたんです。

ところが、そうやって挑んだアンドラでは、「ゆっくり行こう」と思っていたのに、途中の長い下り坂でいつの間にか無意識にペースを上げてしまい、足が終わってしまいました。その後足が回復することはなく、足の痛みに耐えながらペースを上げられないままなんとかゴールに辿り着きました。自分としては、後悔の残るレース展開でした。

どれだけ「ゆっくり行こう」と思っていても、普段負荷の高いトレーニングをしていたために、ついつい気持ちよくペースを上げてしまったのです。

それから4年が経ち、最近は追い込んだ練習もできておらず、そもそも「速いペース」で走ることもできない身体になっていた僕は、これをチャンスと思うことにしました。

つまり、UTMF本番の4月まで、一度も「追い込んだ」走りをすることはせず、ただ「100マイルペース」の練習だけに専念しようと思いました。薫さんがやっているように、「このペースなら100マイル行ける」という自分のペースを見つけ出し、そのペースで常に走り続けることで、身体に染み込ませて、ずっとそのペースで走り続けることに慣れていこう、と思いました。

これが、「トレーニングに対する考え方を根本的に変えた」ということです。

とは言え、毎回トレーニングのたびに、50kmとか長い距離を走るわけにも行かず、平日などは10kmほどしか走れない時もあります。そんな時に、100マイルペースで走るだけではあまりに負荷が低いし、ついついペースを上げてしまうだろうと思い、考えついたのが荷物を背負って走ることでした。短い距離を走る時は、ペースを上げるのではなく、荷物を背負って負荷を上げ、ペース自体は100マイルペースを維持することにしました。

それで、通勤の時はパソコンや着替えを一式ザックに入れて走り、週末に30km走りに行くときも、水を5リットルほど背負って走るようになりました。

これで、どうやってもペースを上げるのは難しくなるし、とにかく100マイルペースを身体に覚え込ませつつ、徐々に長い距離に身体を慣らしていくことにしました。

実際のトレーニン

レーニングの計画は、基本的に以下のようなプランを考えました。

・週末に1日は長めの距離を走る(最初は約30km〜終盤は約70km)

・平日も1日はトレイルを走る(約10km)

・平日3日は何かしらのトレーニングをする(平地ラン、自転車、階段登り)

最初の頃は、30km走ったらもうくたくたで、家に帰ったらもう走れない、とのびていましたが、週末のロング走の距離も徐々に伸ばすことができました。

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これが、毎週末のロング走の一覧です。最初は20-30kmくらいからはじめ、徐々に距離を伸ばしていきました。

コースは、できるだけUTMFのコースプロフィールに近い山を選び、あとは遠くに遠征して時間を使うよりも、近所の山でしっかり本番を想定した走り込みをすることを優先しました。

UTMFコースの平均傾斜(累積標高 ÷ 距離)は、4.7%なので、大体それに近い5%くらいの傾斜になるようにしつつ、たまにロードが入ってランが交じるようなレイアウトのコースを走るようにしました。

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こちらは距離(円の大きさ)と、平均時速を表したグラフです。

少しずつ距離を伸ばしながら、自分なりの100マイルペースを見つけるため、距離と平均時速のバランスを毎回見直しました。

距離が40kmを超えるまでは、だんだん平均時速が5.5km/hくらいまで落ちていましたが、その後50km、60km、70kmと距離を伸ばしていっても、同じくらいの平均時速で走れることが分かってきました。

一旦この辺りが、休まず走る時のペースかな、という事が分かってきました。

ちなみに、このトレーニングのうち何回かは、薫さんと一緒に走っていて、その時はやはりペースが速く、後半足が動かなくなりました。

その時の経験から、僕の100マイルペースは、だいたい薫さんペースの1.35〜1.5倍くらいだろう、ということが分かりました。

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こちらは、ロング走の距離と、その時の平均心拍、ケイデンスの比較です。

短い距離の時は、平均心拍が150前後と高いのに対して、距離が伸びていくと大体135〜140bpmくらいに落ち着いていきました。

自分の身体のコンディションを見ながら、ロング走を繰り返すことで、自分の100マイルペースは、

・心拍数140未満
・平地のロードペースで1キロ6分半

あたりが、適切なペースだろう、と考えました。

逆に言うと、心拍数が150以上になったり、1キロを5分台で走るようなペースは早すぎであり、そんなペースで本番走ってしまうと、自分はつぶれてしまうので、心拍数は基本的に140以下、ロードではキロ6分半以上を目安に走るようにしました。

これは、少し走ったことがある人なら分かると思いますけど、やっぱりかなりゆっくりです。STRAVAでこのペースのログを上げたら、「今日はリカバリランなのかな?」と思われるペースです。

自分でも、「本当にこんなゆっくりで良いのかな?」と思うことはありました。だけど今回は、薫さんがやっていることを全面的に信じてやろう、と決めたので、それを徹底することにしました。

半年間も走り込んでいると、流石に体力もついてきて、時にはすごいスピードで走ってみたい、という衝動に駆られることもありました。でも結局そういう走りは、その時に気持ちが良いだけで、100マイルの完走のためにはあまり有益ではないどころか、どちらかと言うと自分のペースを乱してしまうものだ、と思って我慢しました。

クロストレーニン

グラフを見ていると、順調に距離を伸ばしていったように見えますが、もちろんトラブルもありました。久しぶりに走り込んだので、1月くらいに膝が痛くなりました。

最初に痛くなったのは腸脛靭帯でした。いわゆるランナー膝です。

あまり無理をすると悪化するので、そういう時は別のトレーニングにしようと思い、自転車に乗るようになりました。

季節は冬だったので、ローラーに自転車を乗せ、テレビを見ながらローラーを回すようになりました。このトレーニングは、雨でも寒くてもすぐにできますし、膝も痛くならないので良かったです。

こうして、「膝に少しでも違和感があったら無理せずに自転車に乗る」という感じで、クロストレーニングを続けました。

自転車以外に取り入れたのは階段登りです。近くに地下3階、地上18階建ての高いホテルがあるので、その非常階段を下から上まで上り、膝が痛い時はエレベーターで下る、というトレーニングです。

一度は、膝が痛くなって2週間くらい山を走れない時期もありましたが、そうやって他のトレーニングをしながらケガを回復させ、また山に入りはじめました。

薫さんに相談すると、腸脛靭帯炎は関節の周りの筋肉が弱いからなるので、休んでいるだけでは治らないので、走ったほうが良い、と教えてもらったので、ある程度のところで山のトレーニングを復活させて、筋肉をつけるようにしました。

2月に入ると、今度はシンスプリントが痛み始めました。シンスプリントについては、無理しない方が良い、と言われたので、この時は「痛い時は山に入らない」ことにして、他のトレーニングを続けました。

それにしても、ローラーや階段登り、それに近所の同じような山ばかり走るのは結構退屈なもので、この頃は、だんだんトレーニング中に飽きてきました。

特に、ロング走をする時は、朝から夕方まで1日中一人で走るので、その時間が退屈になってきて、どうにかならないものかと考えた末に、AirPodsでAudibleの本を聴くことにしました。Audibleの本は、大体1冊15時間とかかかるので、かなり長いトレーニングでも1冊終わることはなく、逆にロングの練習でもしないと、なかなかまとまって聴くこともできない長さなのですが、山の中を一人で淡々と進んでいる時には、ちょうど良かったです。

おかげで、週末は1日、山を走りながら本を読む、みたいな生活パターンができてきました。

それから、体重を減らすために食事も変え、できるだけ糖質を減らすことにしました。朝ごはんは野菜の入ったスムージーにし、昼はナッツなどをつまむくらいであまり食べず、夜だけ好きなものをお腹いっぱい食べる、という生活にしました。

食生活については、うっしーさんが献身的にサポートしてくれ、おかげで体重は毎週少しずつ減っていき、3月には67kgくらいになり、8kgほど減量ができました。

コースの試走

UTMFのコースは、途中まで走ったことがあります。2018年のSTYに出場したことがあり、この時は試走1回と本番で2回走っています。

だから、こどもの国から勝山までのコースは分かっていて、90kmほどは頭に入っています。

問題はそこからの70kmで、しんどくなってくる後半の70kmを知らずに本番を迎えるのは避けた方が良いのは明確でした。

僕の場合、その先の道が頭に入っているかどうかで、全然楽さが違います。どちらかと言うと、コースの地形や道のりを頭にイメージして走るのが好きなために、そのイメージが明確に描けているときと、知らないときでは、全然走る感覚が変わります。

2018年のSTYも、一度試走をしておいたので、最後までとてもイメージがしやすく、おかげで上手にペース配分ができました。

それに比べてアンドラの時は、全てのコースが未知のコースで、ただそれだけでも恐れがあったし、後半に行くに連れてどんどん「一体この道はいつまで続くんだろう」というマイナスの気持ちが増えてしまいました。

「知っている」ことは強みだ、とよく分かっていたので、3月下旬に試走に行き、富士吉田から後半の周回コース65kmを、12時間半ほどかけて一周しました。


UTMF中止

そんな計画を進めていた3月下旬、突如UTMFの中止が発表されました。

2月の発表の際は、開催する方向で話を聞いていたので、正直びっくりしました。

「ぽかーん」という感じがぴったりで、なんかあまり具体的なことを考えられない感じでした。

周りの人は、急いで宿をキャンセルしたり、代わりの大会を探したりしていました。よく一緒に練習していたうねさんは、5月下旬の球磨川にエントリーをしたし、一緒に試走に行く予定だった二宮さんは宿をキャンセルしていました。

でも、正直僕はそのどちらにも気が進みませんでした。

まず、僕はUTMFに向けてトレーニングをしてきたのであって、それが急に別の大会に代わる、というイメージが持てませんでした。UTMFコースの地形に合わせて、本番を想定して準備をしてきたし、下見もせずに他の大会に出る、という気にはなれませんでした。

かと言ってすんなり諦められるか、というと、それも難しくて、ここまで時間をかけて、しかもうっしーさんなど、周りの人も巻き込んで準備をしてきたのに、「あ、そうですか」と諦めることもできませんでした。

これが例えば、台風で大会が中止になった、とかなら諦めもついたと思いますが、原因はコロナです。人がいなければコロナにはかからないんだから、一人でも良いから本番コースを走りに行こう、と思いました。もし一緒に走る人がいるなら、IBUKIを使ってもらって、一緒に走ればいいと思いました。

そう思っていたら、丹羽薫さんや、フィールズオンアースの久保さんいいのわたるさん、サロモンの中村さんなどが、どうしても走りたいというランナーのために、小規模の100マイルイベントを開催しようとしていることを教えてもらいました。

まさに僕が思っていたような内容だったので、すぐに、そのイベントに協力することにし、僕は走ることを決めました。

それが中止発表の翌日の話だったので、結局トレーニングをやめることもなく、特に予定は変更もせずに、本番の準備を続けることにしました。

試走も予定通りいくことにしました。UTMFは中止になったのに、なんでわざわざ宿にも泊まって、試走までしてるんだろう?という感じもありましたが、どうせ走るならちゃんとやろうとしていたことをやって臨みたかったし、もはや、UTMFということじゃなくて、僕は富士山の周りに設定されたこの100マイルのコースを、走り切ることがやりたいことなんだ、と思いました。

UTMFの優勝候補だった薫さんが、このイベントに出場を表明していたことも大きかったです。アンドラの時もそうでしたが、薫さんと同じコースを走れるというのは、やっぱり大きくて、僕よりもずっと前の方で、薫さんが切り開いた後ろを、引っ張られるようについていき、道中ではチームのメンバーと顔を合わせられて力をもらえる。それだけのお膳立てがあれば、別に大会がどういう主体だろうと、そんなに自分にとっては変わらないなと思いました。

さらに言えば、もともとUTMFはサポートが禁止でしたが、自主的なイベントになればサポートを自由に行うことができ、そうなると各ポイントで待っていてもらって、補給をしてもらったり、応援をしてもらうことができて、明らかにその点では力をもらえます。

うっしーさんと、球磨川に照準を変えたうねさんにサポートを頼んで、恐らく全選手の中で一番充実している2人のサポートについてもらって本番を迎えることにしました。

レースプラン

2人もサポートについてもらうことになり、いつ、どこでサポートしてもらうのか。大体何時ころに到着予定で、そこで何を食べて、どういう着替えをしたいのか、などを計画しておくためにレースプランを作りました。

このプランも、いつものレースとはちょっと考え方が変わりました。

これまでは、どちらかと言うと「レース運びの目標」という意味合いでプランを作っていました。つまり、各区間をどれくらいのペースで走って、何時間でゴールを目指すのか、というペース目標です。過去のリザルトを眺めて、「この時間でゴールすれば、○位に入れる」と、順位も意識していました。

しかし今回は、特に順位を気にするようなイベントでもないし、夜通しで二人も自分の走りをサポートしてくれるので、「大体どういう動きをしてもらうことになるのか」という目処を伝えておかないと申し訳ない、という気持ちがあり、「できるだけ現実に近い計画」を作ろうとしました。

だから、現実離れした目標タイムを入れたりするのではなく、「多分これくらいになるだろう」という予想を作りました。
作り方としては、薫さんの2018年のタイムと、自分のSTY・試走の時の区間タイムを調べ、それに本番だと遅くなるだろうからその係数をかけ、さらに、後半に行くに従ってペースが落ちていく、という想定で時間を計算しました。各エイドで休む時間も、現実的な休憩時間を考えました。

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これがそのレースプランで、一番うまく進んだAプランで約35時間、Bで36時間、大きく崩れたCで38時間と予想しました。
休憩は各エイドで10〜30分休む想定で、たまにしっかりご飯を食べる場所では、30分くらい休憩できるようにしました。

事前にサポートしながら参加させてもらった丹羽薫さんのトレイルキャンプでも、このレースプラン作成が重視されています。
実際に薫さんがレースの際に作成しているプランを見せてくれ、各エイドでどういうことをやるか、何を持つかも含めてしっかり計画を立て、それに近い展開できるように教えられます。

薫さんも毎回サポートを付けて100マイルに挑戦するので、サポートメンバーに共有するために、という意味も込めてプランを作成しているんだと思いますが、今回は自分もサポートをお願いすることになって、それがまた「現実的な」プラン作成につながった気がします。

大会の準備

大会の準備は急ピッチで進める必要がありました。同じタイミングでUTMFが開催される予定だったと言っても、それはUTMFのための準備であり、別のイベントをするには一通りの準備が必要です。

この辺はさすが、イベント運営に慣れている久保さんや中村さんが、いろんな手配を進めてすごいペースで進んでいきました。

大会名はいくつか案が出ました。個人的には、あまり奇をてらったり格好良くする必要はなくて、「富士山で100マイルに挑戦する人たちのためのイベント」という趣旨をそのまま表現した「富士山100マイルチャレンジ」的なもので良いのではないか、と思い、それを提案すると、そのまま採用されて、イベント名は「富士山100マイルチャレンジ」になりました。

難航していたのがコースの選定で、UTMFで試走禁止となっている区間をどうするか、という課題がありました。

特に、スタートのこどもの国から富士宮までの区間は、距離が25kmと長く、この全区間が試走禁止となっていたため、代替のコースを探さなければなりません。

案としては、こどもの国から富士宮までずっとロードを通る案がまず出ましたが、ロードを25kmも走ったら足をやられて多くの選手が走れなくなるだろう、という意見が出て却下。

続いて出てきたのは、ゴール手前の霜山から更に北に行き、御坂山の方を周回してから戻ってくる案。こちらは、天気が良ければ富士山の眺望も楽しめますし、トレイルの比率も高いのですが、ただでさえしんどい最後の山に、さらに登らなければならない山が加わるのは、体力的にも精神的にきつい。特に関門ぎりぎりで完走を狙う選手のことを考えると、UTMFから大幅に累積標高が増えるような変更は避けた方が良いだろうという意見がでました。

それ以外に、本栖湖や、太平洋から富士宮までロードを走る案も出ましたが、どれも決め手にかける、という感じでした。

UTMFのコースは、こどもの国から富士宮まで、ゆるい下り基調で、トレイルとロードがミックスされていて、これよりも難易度を上げずに、トレイル率を下げないような道を選定するのは難しいだろうと思っていました。

それで、もうここは、送電線の下のトレイルを管理している東京電力さんに相談して、イベントのためにトレイルを使わせてもらえないか話をするのが一番良いんじゃないか、と思い、そのように提案しました。

「そりゃ、それができるなら一番良いですね」ということになり、成り行き上言い出しっぺとして自分で相談を進めることになりました。連絡を取ってみると、意外と前向きなお返事を頂き、「一度会って話がしたい」と仰るので、沼津まで打ち合わせに行きました。

久保さんといいのさんにも来てもらって、お話をした結果、UTMFで通る予定だった送電線下の区間に加えて、こどもの国から7kmほど続くMTBコース「Fujiyama Power-line Trail」も通らせて頂けることになりました。担当の方はトレイルランもされる方で、とても前向きにお話をしてくださり、助かりました。

ご相談をしたあと許可を頂いて、実際に「Fujiyama Power-line Trail」を試走しました。とても良く整備されているトレイルで、気持ちよく走ることができ、これは素晴らしいコースになると思いました。

それ以外に、青木ヶ原樹海を通る東海自然歩道許可申請なども自分で関わり、コースが確定しました。

確定したコースは、UTMFのコースとほぼ同じですが、いくつかの試走禁止区間を迂回していて、あとは、最初の「Fujiyama Power-line Trail」と送電線下のトレイルをこのイベントのために特別に通らせて頂けるのと、国道139号線の代わりに青木ヶ原樹海内の東海自然歩道を通るコースが出来上がりました。

その他、スタート・ゴールやエイドなどの施設利用許可や、バスの手配、エイドの準備などを久保さんや中村さんが急ピッチで進め、イベントの参加募集が始まりました。

一般参加者の募集が始まると、一晩で定員に達し、あっという間に80人の定員が埋まりました。

1ヶ月前には、全く想像もしていなかったことですが、こうして、複数の知り合いと一緒に80人規模の100マイルイベントを作ることになり、本番を迎えました。まさか自分が、富士山を一周するレースのコース選定に関わり、権利者さんとの相談や試走をすることになるとは夢にも思わなかったですし、そこにこれだけの人が集まるとも思っていませんでした。

参加者には、全員IBUKI GPSを持ってもらうことになり、そちらも、最後まで電池が持ちつつ、GPSや計測が行える設定を準備して、本番へ向かいました。

富士山100マイルチャレンジ、スタート

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4月23日、11時。天気は晴れで、富士山が見える絶好の景色の中、富士山100マイルチャレンジはスタートしました。

20人ずつ4組に分かれて、2分おきにウェーブスタート。みんなマスクを着用して、スタートしていきます。

僕はIBUKIがちゃんと動いているのを確認してから、最後の組でスタート。

とにかく、これまで身体に染み込ませてきた「100マイルペース」を守ることだけを考え、スタートしました。

スタートしてみると、しばらくロードに入りますが、キロ6分半ペースで走っていたら、全員に置いていかれて、気づけば最後尾になっていました。

まあいいや、自分のペースは絶対にこれであっているはずだ、と言い聞かせ、一人で最後尾で焦らず進んでいきました。

しばらくすると、前の組でスタートした選手が少しずつ遅れてきて、ちょっとずつ順位を上げたものの、最初のウォーターエイド、白糸の滝では36位でした。

十分ペースを抑えたつもりでしたが、予定していたプランよりは24分早く到着。ただし、これはコース変更の要因もあったと思います。

続いて天子山地。最初の山場です。

この上りで、頭がくらくらするのを感じました。寝不足なのかなんなのか、とにかく、疲れを感じるには早すぎるので、正直その先が不安になりました。

天子の上りは割と急で、標高差が800mくらいあり、そんな急で長い坂のトレーニングをしていなかったので、それも要因だったかもしれません。

さすがに京都周辺の低い山だけでは、この上りの練習が足りなかったかもしれません。

それでもどうにか稜線まで登りきり、縦走を開始。長者ヶ岳には応援の方が来てくれていて、写真を撮ってくれました。こんなところまで来てくれるなんて感謝感激です。

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熊森山への急登を登り切ると、急な下りを降りて林道へ。ここでいいのさんが待っていてくれて、また明るい気持ちになりました。

林道への分かりにくい道を降りても、まだ周りは明るく、どうにか日が暮れる前に天子山地をクリアできました。

林道を下っていくとサポートの二人が待ってくれていて、ここで牛丼をたっぷり食べ、夜の東海自然歩道に向かいます。

もともとは麓でサポートしてもらう予定でしたが、車を入れられないことが分かったので場所を手前に移動して補給してもらいました。

ここから本栖湖までは、実は20kmほどあるのですが、なんとなく麓から行くのとそれほど変わらない感覚で走っていたために、そんなに距離があると思っていませんでした。

さっき食べた牛丼が、満腹感を生み、あまり補給を取りたいとは思えず、ずっとジェルも食べずに走り続けました。

麓の手前で、薫さんと杉ちゃんのサポートをしていた瞳さんとしのちゃんがいて、撤収前に会うことができました。知っている人がいると本当に元気をもらえます。

夜の東海自然歩道は、平坦からゆるい上り基調の道で、ここをそれなりに走って進み、端足峠の上りに差し掛かりました。

上りに入ると、ちょっと身体がおかしい。さっきよりもさらに頭がくらくらするし、身体もフラフラする。たまにバランスを崩して左側に倒れそうになるし、力が入らない。

なんだろう?どうして?まだ50kmしか来ていないのに、どうしてこんな風になっちゃってるの??

自分でもわけが分からず、とにかく峠を超えて本栖湖まで降りればサポートに会えるからそこまで行こうと進んでいきます。

ようやく本栖湖に着いたときには、元気がなく、笑顔を出すこともできませんでした。

とにかく椅子に座り込み、足を上げて休もうとした時に、急に身体が震えだして、ガクガクと震えが止まらなくなりました。

自分でも訳がわからず、え?何が起こっているの?という感じでしたが、とりあえず車に入って温まろう、ということになり、暖房を入れた車に入り、服を着替えました。脱いだ服はびっちょり濡れていて、着替えて暖房にあたっているとようやく震えが収まりました。

あとから考えてみると、麓の手前から一度も補給を取っておらず、まずまずのペースで走っていたために、ハンガーノックになっていたようです。牛丼の満腹感が残り、全然お腹が空いた感じにならなかったので、カロリーは足りていると思っていましたが、少し頑張りすぎて食べ物を受け付けなくなっていたのかもしれません。

あとはもう一つ、この時間帯はすでに辺りは真っ暗になっていましたが、真っ暗の夜の山に一人で入っていくのが嫌でした。正直に言って怖い。

これがUTMFのように、たくさんの選手やスタッフがいる大会なら、しょっちゅう人に会うし、それほど怖くもないのですが、今回のような少人数のイベントでは、ずっと誰にも会わず、夜の山を一人で進まなくてはなりません。

それを避けるために、周りの選手に声をかけて一緒に行く人もいますが、それはそれで、ペースが合わないと待たせたりして申し訳ないし、あまり得意ではありません。

なんとなく、昔から夜の山は苦手というか、入っちゃいけないもの、と思っている部分があって、その感覚はどこから来ているのかな、と考えてみると、そもそも自分は山のことを、実はとても怖いものだと思っていると気付きました。

高校でワンダーフォーゲル部に入部した時に、先輩から課題図書として読まされたのは、『八甲田山死の彷徨』とか、ヒマラヤ登山で遭難死するような本ばかりでした。若い自分にはホラーでしか無いような本ばかりです。

先輩は恐らく、山の怖さを教えようとしたんだと思いますし、それはそれで成功したのかも知れません。しかし、今になってよくよく考えると、この体験は僕の中ではトラウマになっていて、正直、どこかで、山のことを「どうしようもなく怖い」ものだと感じている部分があります。

あまり知らない夜の山に入っていくと、どうしてもこの「どうしようもなく怖い」イメージが出てきてしまって、正直、本当に行きたくないと思いました。

エイドで「夜の山怖いから行きたくない」と話していたら、半分笑われたんですが、割と真面目にそう思っていました。

とは言え、そんなこと言っていたらいつまで経ってもゴールできないので、出発することにしました。車の中で毛布にくるまって温まっていたら、55分くらい経過していて、ここで一気にプランから30分以上遅れてしまいました。

食べて休んでいたら身体も温まり、ゆっくり動けそうではありましたが、「夜の山が嫌」問題をなんとかしないと、と思い考えついたのが、まず、暖かい格好をして、あまり汗をかかないこと。汗をかくから冷えて、体の底から震えてしまう。できるだけ汗をかかないくらいのゆっくりとしたペースで行こうと思いました。

それからもう一つ、AirPodsでラジオを聴くことにしました。これは、実は他の参加者からもらったヒントなんですが、他の選手が首からラジオをぶら下げて聴きながら歩いていました。これは賢いと思って、真似をしようと思い、AirPodsRadikoを聴くことにしました。

ちょうどオールナイトニッポンをやっていて、その日はさだまさしが話していたんですが、これが良かった。ゆっくり歩きながら、さだまさしの話と音楽を聴いていたら、すっかりほっこりして、「これなら行ける」と思いました。

さだまさしは最近、セルフカバーアルバムの「さだ丼」をリリースしたらしくて、その中の曲にまつわるエピソードを紹介しつつ、曲をかけていたのですが、これが異常に面白かった。

北の国からのパートでは、倉本聰に電話をかけて話をしはじめ、そうしたら倉本聰がいきなり「北の国から」で作詞印税は取っているのか、と聞きはじめて、さだまさしは取っていないという。北の国からのテーマソングを作った時に、さだまさしが最初に倉本聰の家に行ってギターで披露した時に、歌詞がなくて、「あーあー、あああああー、うーうー、うううううー」と「あ」と「う」だけで歌ったら、倉本さんが「もう「あ」と「う」だけでいいんじゃない?」と言って本当にそれだけの歌詞になったけど、それなら倉本聰が自分が作詞したと名乗って作詞印税を取れば儲かったのに、失敗した、などと話していて、聴いているだけで面白かった。

あとは関白宣言の話が面白くて、あの歌詞は「俺より先に寝てはいけない」「俺より先に起きてもいけない」「めしはうまく作れ」「いつもきれいでいろ」と、最近女性蔑視発言が問題になっている社会ではちょっと時代錯誤と言うか、なかなか表立って発しにくい歌詞もあるけど、実は若い女性からは「関白宣言が聴きたい」とリクエストが増えているらしい。どこかに、そういう男らしさを求める風潮が出てきているのかもしれないな、などと考えているうちに、頭の中は完全に「関白宣言」に支配されてしまって、その後160kmのゴールを迎えるまで、僕の頭の中はずっと「関白宣言」が流れていました。

よくよく最後まで聴いてみたら、とても愛情に満ちた歌だよな。これを時代錯誤で間違っている、と一面的に切り捨てるのも、なんかおかしいよな、などと思いながら歩いていたら、いつの間にか本栖湖を周回するトレイルも随分進んでいました。

どちらかと言うと山の中のほうが、ゆっくり歩いていてもそんなに遅れている感じがしない。その後本栖湖畔に下って、青木ヶ原の樹海を抜ける東海自然歩道に入ってからのほうが辛かった。

この区間は、だらだらとしたゆるい上りで、走ろうと思えば走れる。だけど、走ると汗を掻くし、また冷える。かと言って、歩くだけだとちょっとゆっくり過ぎる、というなんとも微妙な傾斜のトレイル。

また無理をして走って汗をかいて、冷えてしまって震えるのは避けたくて、ちょっと早歩きくらいでずっと進んだ。

精進湖の民宿村付近に到着してみると、サポートの二人が車で直前まで寝ていたようで、寝起き感満載で迎えてくれました。まだ意識がはっきりしていない、という感じで、どうにか適当に食べ物を食べさせてもらい、また少し暖房で温まって横になりました。さっきよりはマシだけど、まだ身体が冷えて力が出ない感じが残っています。

「このまま行くとどうなるんだろう?」と僕が言うものの、みんな明言は避けていました。すでに一番遅いCプランからも40分遅れになっていて、この調子では、24日中にゴールするのは難しそうです。ゴールの近くに宿を予約しているのに、もしかしたら朝になるかもしれず、せっかく宿をとったのに泊まることもできないかもしれない、と思い始めました。

先の見えない中、とりあえず前に進むしか無い、という少し残念な雰囲気でした。

次はどこで会おうか、という話になり、できれば勝山までは補給無しで行けると、二人が勝山で寝て待てるのでありがたい、という感じだったので、そこまで一人で行くことにしました。

本当は鳴沢氷穴で一度会えると良いなと思っていたけど、ちょっと飲み物や食べ物をもらうためだけに起きて待ってもらっているのも申し訳ないので勝山まで行ってもらうことにした。

でも、本音を言うと、補給のためというよりは、夜がつらすぎて人に会いたい、というのが一番大きかった。

特に樹海は鬱蒼としていて、まあ、自殺の名所である、という先入観も大きかったと思いますが、一人でずっと歩くにはかなり怖くて、せめて真ん中あたりで人が待っていてくれたらうれしいなとも思ったんですが、そのためだけに逆に女性二人を樹海の中で待たせるわけにも行かなかったです。

それで、また何かを聴きながら歩こうと思ったんですが、オールナイトニッポンさだまさしの時間はとっくに終わって、今はもう朝の3時で、芸人さんが話し始めていたんですが、これがつまらなくて、仕方なく落語を聴くことにしました。さだまさしが懐かしかった。

そうやってしばらく真っ暗な樹海を進んでいると、不意に後ろから人の声がする。咳をしたり、たまに笑ったりしている。

最初は気のせいだと思っていたんだけど、どう考えても背後から声が聞こえる。しかも何度も聞こえる。場所が場所なだけに、めちゃくちゃ怖くて、振り返ってライトを照らすこともしたくない。必死で逃げるように速歩きで立ち去るのに、また背後で人の声がする。

なになに、どういうこと。やばい。自殺しようと思って樹海に入った人が、僕を見つけて追いかけてきているんじゃないか、と、怖がっていたけど、しばらくしてようやく訳がわかった。

聴いていた落語が、寄席の収録で、観客席の観客の声だった。咳や笑い声が収録されていたんです。

AirPodsって、左右だけじゃなくて、前後の臨場感を表現する機能があるんですね。そんな無駄に高機能なものがついているせいで、噺家の声は前から聞こえるのに、観客席の観客の声は後ろから聞こえるんです。それに全く気付かなくて、もう、自殺願望の人が狂って僕を追いかけ回してるんじゃないか、と思って、心底怖かった。

あとから聞いたら笑い話なんですが、ほんと、その時は生きた心地がしなかった。

長ったらしい青木ヶ原樹海の道、何度も何度も同じ景色が現れて、まるで同じところをぐるぐる回っているかのような時間帯を抜けて、ようやく鳴沢氷穴に到着。

この区間はとにかく眠くて、途中でヨロヨロと倒れそうになったりしていたので、氷結の自販機でコーヒーを飲みました。

そして、紅葉台〜足和田山に入っていきました。

山を登り始めると、さっきまでのだらだらした道と違い、景色も変わるし、楽しくなってきた。しばらく歩いていると、空が白み始め、鳥が鳴き始め、朝の気配が降りてきました。

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コーヒーが効いたのか、頭も覚醒し始め、急に身体に元気が湧いてきました。

そうだ、こんな風にダラダラ歩いていても時間がかかるだけだ。もっとしゃきっと歩こう。せっかく徹夜でうっしーとうねちゃんがサポートしてくれているんだから、せめて良い走りをして、手伝ってよかったと思ってもらえるように走り遂げよう、と思い、なぜか急にスイッチが入りました。

やっぱり山を歩くのが好きなのかもしれません。それまでの樹海と違い、山を登っていると楽しくなってきました。あとは、やっぱり夜が怖かったのかもしれません。

スイッチが入ると、もともとの「100マイルペース」を身体が思い出し始めました。いつもの感じで、淡々と登っていく感じに戻ってきました。

そしてなぜか、ここに来て、足も痛くないし、それほど身体もしんどくなくなりました。「この感じなら、最後までいけるんじゃないか」と思いました。

和田山を下れば勝山。そこまでくれば残り70kmです。残り70kmといえば、1ヶ月前に試走で一周したコースです。

もうそこまで行ってしまえば、試走した時と同じことをもう一度やればいいだけ、と思うと、急に心が軽くなってきました。そして、自分がゴールできるイメージが湧いてきました。

身体の調子が戻ってくると、「一体何時ころにゴールできるだろう」と考え始めました。すでに、Aプランからは2時間近く遅れていましたが、意外と取り返せるんじゃないかという気がしてきました。

試走の時は、富士吉田から最後の60kmを12時間半で一周しました。同じ区間を、今のペースなら16時間くらいで回れるのではないか。となると、富士吉田まで6時ころに到着するとして、22時くらい、つまりプランAと同じゴールタイムでゴールすることも夢ではないのではないか、と思い始めました。

勝山エイドに着いてみると、二人が待っていてくれて、まだ不安そうにしていました。ここでも直前まで寝ていたようで、まだ眠そうでした。

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二人は、僕がここでゆっくりするだろう、と思って、建物の中に誘導してくれたのですが、僕は出してもらった食べ物を急いで食べて、すぐに出発しようとしました。そして、「夜の10時までのゴールを目指そう」と言いました。

たぶん二人は、そうやって自分を励ましているのだろう、と思っただけで、この時にまさか本当に22時にゴールできるとは全く思っていなかったと思います。

でも、僕は自分の体が、まるで一晩眠って、次の日になって回復したかのように、復活してきているのを感じたし、変なペースアップをしなければ、今のペースを維持できる気がしていました。

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勝山から富士吉田のロード区間を良いペースで走り、次の忍野への区間、そして山中湖きららまでも快調に進みました。毎回、プランを上回るタイムで僕が現れるので、この辺りになると2人も、「もしかして」と思い始めていたようです。

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忍野でCプランに追いつき、二十曲峠でBプランに追いつき、Aプランから1時間遅れまで来ました。

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毎回何か食べ物を作ってもらって、一旦座って食べ、服などを着替えて次の区間に向かう、というルーチンが回り始めていました。

食べ物は、豚汁とか、パスタとか、うどんとか、ちゃんと火を使った料理を作ってくれて、これを食べるのが楽しみで仕方ありませんでした。

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数時間に一度ちゃんとした食事をしていたせいで、トイレに何度も行きたくなり、恐らく2日目だけで5回くらい用を足しました。

どう考えても必要なカロリー以上を食べていたと思いますが、足りないよりはマシだろうし、ちゃんと胃が動けているのは良いことだ、と思い、食べたいだけ食べて進みました。

後半一番険しい山である杓子山は、ぜひ明るい時間帯に通過したかったので、日が暮れる前に下山できてホッとしました。前日のこともあり、ここを一人で暗い時間に通過することだけは避けたかった。

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僕より後ろの人は、夜に一人で杓子山を登った人がいるはずで、正直尊敬しました。

最後のエイド、明美湖に到着すると、めちゃくちゃ美味しいうどんを作ってくれていて、これを食べて、いよいよ最後の区間に入りました。

この時点で、Aプランから40分遅れ。かなり挽回したものの、さすがに40分取り返すのは難しいと2人は思っていたと思いますが、僕は行ける気がしていました。

というのも、ここまで、一切追い込まずに来ていましたが、最後の山となれば、少しくらい追い込んで登っても大丈夫です。そして、今の自分にはその余力があると感じていました。

霜山の上りに入ると、それまでとはちょっと違うペースで、登り始めました。「これが最後の上り。1時間頑張ればあとは下るだけ」と、ペースを上げ、登っていくと、次第に上方にヘッドライトの明かりが見えました。

先に歩いていた選手を2名ほど追い抜かし、霜山の尾根に到着。あとでログを見ると、試走で走ったときよりも速いペースで登っていました。

ここからは走りやすい下り。すぐに走り始めます。

さすがに足に疲労が溜まっていて、飛ぶようには走れませんが、それでもストックを使いながら今までよりは速いペースで進みます。

試走の時は、天上山を巻く林道からくだったのですが、今日は天上山のピークを通るコース。

大した上りは無いだろうと思って天上山に差し掛かると、まさかの激坂。ふかふかの砂地の急斜面が待ち構えていて、最後に想定外の上りが待っていましたが、それも越え、あとは下るだけ。

下りにくい階段の道を富士吉田の町まで降り、ロードを走ってゴール。

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結果は、21時57分。34時間51分でゴールしました。

なんと、本当に22時を切ることができ、Aプランの34時間50分から1分しか変わらないタイムでゴールできました。

分析

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改めて、先ほどのレースプランと実際のタイムを入れた表です。

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これが、各プランのタイムと、実際のタイムがどれくらい差があったかのグラフ。
勝山エイドでプランAに対して2時間、プランCに対しても1時間遅れになっていたのが、後半盛り返して、最後にプランAと同じタイムまで持っていけたことが分かります。
プランでは、後ろに行くに従ってどんどん遅くなる想定にしていたために、後半で取り返すことができました。

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こちらは各区間のタイム。最初の区間は予定より早め。
天子山地は、意外と予定より遅め。
本栖湖の後の夜の2区間で予定より遅めの区間が続き、2日目の復活で予定より早めの区間が続いていったことが分かります。

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こちらは休憩時間の比較。
本栖湖精進湖の2箇所で、想定より大幅に長い時間休んでいます。車の中で暖房に当たりながら、少し横になったことで、時間を使いました。
それ以外については、長めの休憩時間を想定して予定を組んでいましたが、それが実際と大きく外れなかったのが、本番で余裕を持って展開できる結果になりました。

初の100マイルを振り返って

ということで、半年間くらいかけて準備を続けてきた100マイルに、無事完走することができました。

期間中は、ずっと晴れていて、富士山を終始見ることができました。3日間も富士山が見え続けることも珍しいと思うのですが、天候に恵まれたことも完走につながったと思います。

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今後に向けた課題を上げるとすれば、長くて急な上りのトレーニングが足りず、天子山地や杓子でペースが落ちてしまったことと、夜の山への耐性が弱く、深夜の本栖湖周辺でペースが落ちてしまった点です。

途中で想定外にペースが落ちてしまう事態も発生しましたが、2日目に回復し、そこからは比較的安定してゴールまで辿り着くことができました。

ずっと100マイルペースで練習を重ねてきたことが、後半の安定したペースにつながったのだと思います。

半年前には、体重が10kg以上も重く、到底100マイルなど走れる状況ではなかったことを考えると、大成功と言って良いと思います。

この成功は、100マイルペースとはどういうものか、現実的に自分の力を見極め、現実的なプランを作ることの大事さを教えてくれた薫さんに寄るところが大きいです。

自分自身もそうでしたが、100マイルレースを走るに当たって、実は適切なペースよりも速いペースで取り組んでいる人が、結構多いんじゃないかと感じます。

本番の序盤のペースもそうですし、普段のトレーニングでもです。

それは別に、無謀だとか、無理しているとかではなくて、単純に「自分の100マイルペースがどれくらいのペースか」を理解していないことから来ているのではないかと思います。

薫さんはよく、「自分を知っていることが大事」と言います。

今回改めて、その言葉の重要性を身にしみて感じました。自分が「どれくらいのペースならずっと走り続けられるか」を「知る」ことが、現実的なプランづくりにつながり、周りの人を巻き込むにしても、ある程度予定どおりにことを進めて安心してもらうことにつながり、最後は予定通りゴールして、達成感を味わうことにつながるのだと思いました。

これは何も、トレイルランに限った話ではなく、ちょっと大げさかも知れませんが、僕が今回得た人生訓と言っても良いです。

例えば会社を作るにしても、「この会社はこれくらいのスピードで成長させたい」というプランを作るわけですし、そのプランを信じてくれる人に加わってもらったり、それを信じる人からお金を集めたりするわけですが、実際にプラン通りに成長する企業というのは一握りで、多くはそのプランは現実にはならず、途中で資金が尽きたり、集まった人が去っていったり、会社そのものが解散してしまったりします。

要するに、仕事でも「前半飛ばしてつぶれてしまう」ことはよくあるわけです。

しかし、どこかに「現実的に実現可能な成長のスピード」はあったはずです。結局「自分を知らない」ことが、悲しい出来事を引き起こしてしまったりするわけです。

仕事も100マイルレースと似ていて、長い長い道のりで、何年もかけてずっと取り組み続ける活動ですが、その長い道のりをどれくらいのペースで進み続けられるのかを、できるだけ正確に把握することができれば、関わった人も安心できるし、達成感を味わえるわけで、僕は今回の100マイルの体験が、そうやってこれから進めていく仕事にも生きると感じました。

だから、薫さんがいつも話している「100マイルペース」や「自分を知る」ことは、生きる上でも大きなヒントを含んでいると感じますし、今回の取り組みを通して、それを体感できたことが、自分にとっては一番の収穫でした。

今回は、僕自身の100マイル完走以外にも、UTMFが中止になった中、有志メンバーで100マイルイベントを立ち上げるという珍しい体験をしたし、その過程では、様々な困難もありました。また、IBUKIを全選手に使ってもらうことになり、二宮さんにも遠隔で手伝ってもらってようやく運営ができました。それについても別にブログが書けるくらいの内容がありましたが、この1トレイルランナーとしてのブログとはちょっと視点が違ってくるので、ここではあくまでトレイルランナーとしての振り返りに留めたいと思います。

最後に、僕の100マイル完走につながる重要な気付きを与えてくれた丹羽薫さん、夜通しでサポートしてくれたうっしーとうねさん、最高の舞台を提供していただいた久保さんやいいのさんや中村さんをはじめとする富士山100マイルチャレンジのスタッフのみなさん、素晴らしい機会とコースを与えてくれたUTMF関係者の皆さんに感謝します。ありがとうございました。

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SHIGA1 FKT、コロナ

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6月1日から、丹羽薫さんと田口穣さんのSHIGA1 FKTのお手伝いをしてきた。
今回は、IBUKIで作ったシステムを使って、選手の位置情報を把握することになったので、そのシステム面の運用をしつつ、写真を撮影しつつ、その他必要そうなことがあればお手伝いする、という役割での参加だった。
基本的には選手のサポートチームやペーサーが揃っていたので、僕は比較的自由に動くことができたし、良い写真を撮ることが自分が一番貢献できることだと思ったので、撮影をメインにした。

そもそも、このFKTが行われるに至った経緯には、いろいろな事があった。
どういう経緯があったのか知りたい人も居るだろうし、あとから振り返ってみると、コロナという特殊な環境でどういうことが起きたかは貴重な記録になる気がするので、忘れないうちに覚えていることを書いておこうと思う。

経緯

まず最初は、昨年と同様に、シガイチのステージレースを開催することが検討されていた。
しかし、みんな去年の大会で少し疲れが出たのか、2020年大会に向けての準備はそれほど進まず、秋を迎えようとしていた。
僕の方は、仕事で新しい宿泊施設を11月末にオープンすることになっていて、オープン前後はかなりどたばたとしていて、なかなかシガイチに時間が取れない状態になっていた。

あまり動けない状態で、みんなに迷惑をかけるわけにもいかないと思い、10月頃に2020年大会のコースディレクターを務めることができない、という申し出をさせてもらった。
420kmにも及ぶコースを、選手が走れる状態に保つのは並大抵の労力ではできない役割だ。
それぞれの区間で誰かに担当者になってもらい、手分けして管理することもできるだろうが、それをまとめるにもそれなりに力が必要だし、何よりも、大会本番のゴールデン・ウィークは、旅行客がたくさんやってくる想定だったので、仕事が忙しくなる可能性があり、大会本番に現場に居られない可能性があった。
ここまで、仲間と一緒に作り上げてきたコースで、思い入れもあるし、これからも滋賀一周トレイルが発展していくことに関わっていきたいと思っている。その思いは特に変わらないが、2020年大会に限って言えば、責任を持てる状況にはなかった。

コースディレクターを引き継げる人は結局おらず、その他の準備も進んでいなかったので、この話をきっかけに、昨年と同じようなステージレースを開催するのは難しいだろう、という話の流れになった。

そこで出てきたのが、選手が自発的にFKTを行い、それをシガイチ実行委員会(以下実行委員会。実際にそのような実行委員会の存在はどこにも明記されていないが、ここでは、NPO法人滋賀一周トレイルを母体とする滋賀一周ラウンドトレイル実行委員会(的なもの)を指している)がサポートする、という案であった。

一部の選手が、ステージレースではなく、ノンストップのFKT的なイベントなら出てみたい、と言っている、という情報もあり、そのような形式であれば、あらゆるレベルの選手を想定したレースをやるよりは、準備の負担も減るだろうし、昨年とは違うパターンのイベントをやってみるのも、今後に向けて面白いのではないか、という話になった。

僕は自らコースディレクターを降りたこともあって、あまり口を挟まず議論を聞いていたし、その後実行委員会からも外れさせてもらったが、取り組みとして面白いと思った。

SHIGA1 FKTの参加者は、大々的に参加者を募るのではなく、昨年の大会に出場したか、スタッフをした人だけに絞るということで、あまり表に情報は出さずに、水面下で選手の募集ややり取りが進んでいった。

そんな中、昨年大会に出場した入江さん、池田さん、福島さんと、昨年スタッフで参加していた丹羽さん、阪田さんの5名が参加を表明した。
この5人が、ある程度自発的にサポートカーやスタッフを準備し、それを実行委員会がサポートするという想定で準備が進んでいった。

3月9日に参加者用のfacebook非公開グループが作成され、3月22日に参加予定者がアナウンスされ、この時点ではまだFKTは行われる前提で皆が動いていた。(今から思えば、比較的あとまで実施予定だったのだな、と感じる。)

コロナ

コロナの影響が、山の活動にも本格的に影響し始めたのは、確か4月上旬ころだっただろうか。
逆にそれまでは、そこまでの影響が出ること自体、想定できていなかった人も多かったように思う。
新型コロナウイルスの感染が拡大し始め、日本国内でもコロナの話題で持ちきりになり始めたのは2月くらいだっただろうか。
その頃は、閉鎖空間で行われるイベントは「密」を避けるのが難しいから大変だね。だけど山のイベントは、密にならないし、大丈夫だろう。ましてやFKTなんて、ごく少人数で行うのだから、どれだけイベントの自粛が広がるとしても、FKTが開催できないことはないだろう、と思っていた。

その後、3月12日に、UTMFの中止が発表された。この発表の中でも、「この判断はUTMFを行う上でのリスクを検討して出した判断であり、この大会が中止になるからと言って他の大会を中止にすべきだと言うわけではないので、それぞれの大会が、それぞれのリスクを適切に判断して欲しい」といった声明を出していた。

繰り返すけど、コロナウイルスが広がりはじめ、UTMFが中止になり、学校が休校になって、ライブハウスやキャバクラなども休業に追い込まれている状況でも、「さすがにFKTは感染リスクは低いし、実施できるだろう」と思っていた。関係者の多くも、思っていたと思う。

この頃に僕は、森田真生さんの数学ブックトークを聞きに行った。順番は前後するけど、3月1日のことだ。
このときは、世の中的にイベントの自粛も始まっていたが、一乗寺恵文社で予定通りイベントは行われ、50人ほどの参加者が集まっていた。
全員マスクはつけていたけど、普通に椅子を並べて、同じ部屋に集まって森田さんの話を聞いた。

話の内容は、やはりコロナウイルスを避けて通ることはできず、この世の中でどう生きていくべきか、が主題だった。
このブックトークの中で、僕が特に印象に残ったのは、「空気」の話である。
これからさらに新型コロナウイルスの感染が広がるだろう。その被害を抑えるために、慎重に行動をしなくてはいけない。
しかし、決して、他人の意見だけに流されてはいけない。空気に流されず、自分の頭で考え、自分の足で地面に立ち、自分の行動を自分で決めなくてはならない。
決して、他人の意見を鵜呑みにしたり、そのまま何も考えずにただその言葉を他人にばらまく(リツイートする)ことをしてはならない。
そのような行為が重なって、さらに「空気」が強まっていくことになる。
それはとても恐ろしいものである。

実際はもうちょっと違う内容だったかも知れないが、僕が理解し、強く意識した話は、こういうことだった。
森田さんは言明していなかったが、内田樹さんはブログの中で、そのような「空気」が、戦争のときに日本人を残酷な行動に走らせたのだと書いていた。
自分は決して、根拠も曖昧な「空気」に流されたりはしたくないし、ましてやその「空気」を強めるようなことに、安易に加担しない。
これが、僕が森田さんの話を聞きながら、自分の方針として決めたことだった。

空気の強まり

自粛ムードが強まり、「あれ?なんかおかしいな」と感じ始めたのは、4月に入った頃だった。
4月7日に東京をはじめとする7都府県に緊急事態宣言が出され、県外移動の自粛要請が行われた。
僕が一番最初に「怖い」と感じたのは、湘南の海岸にサーフィンに来ている人たちの中に、県外ナンバーの車がいる、として、県外から来ている人たちを非難している人がいると知ったときだった。
このニュースは、瞬く間に全国ニュースとなり、湘南海岸沿いの駐車場は一斉に閉鎖され、入り口に警備員が立つような事態になった。
その後も、県外ナンバーの車が来ていないか、自主的に見回る人が出始め、こうした人達は「自粛警察」と言われるようになった。

おそらく、このコロナ騒動が一段落したあとに、「どうしてあんなにもみんな躍起になっていたんだろう?」と思うだろうな、と感じた。
他人を非難している人は、基本的には正義感(コロナウイルスの感染拡大を少しでも阻止したい)で行動しているのだろうが、わざわざ駐車場を監視して県外ナンバーが居たら通報するほどの行動は、行き過ぎに感じたし、怖さを感じた。

一部の人々を、そうした行き過ぎた行動に駆り立ててているのは、まさに「空気」だと感じた。
世の中が緊急事態になっており、何よりもまず感染拡大防止が優先されるべきなのに、なぜあなたは県外に遊びに来ているのか?
日本中みんなが、そう思っているのだから、私がそれを代表して、制裁を加えます。
そのような心理なんだろうと思う。

しかし実際は、「みんな」がそう思っているわけではない。
少なくとも僕は、そう簡単に、何も考えず、「みんな」に入らないでおこう、と思っていた。
しかし、そのような自分の考えを、発言するのも怖くなる状況がどんどん迫ってきた。

湘南海岸に自粛警察が出ている、というニュースを耳にしていた頃は、まだ対岸の火事
遠く関東では、大変なことになっているみたいだね、なんて話している程度で済んでいた。
しかし、だんだんその波は、京都にも近づいてきていた。

実行委員会からの発表

4月4日、実行委員会はfacebookページで「今年のプレ大会は行いません」と発表した。
これは、もともと「昨年と同じようなステージレースは行いません」という意味の発表だったが、これを読んだFKT関係者からは、「FKTが中止になった」と誤解されてしまった。そもそも、GWに公式な大会があるとしたら、もっと前に告知があるだろうし、このタイミングで告知があるということは、FKTのことを言っているのだろう、と思われても仕方がなかった。
それはもともとは誤解だったのだが、そもそも本当に公式な大会は中止にして、やりたい人が自主的にFKTをやる、で良いのではないか?という意見が、選手側から上がり始めた。
もともとが、ある程度選手が自主的に行うという前提だったし、これ以上実行委員会の負担を増やさなくても、やりたい人が自主的にやれば良いじゃないか、という提案だった。
実行委員会はこれに乗っかる形になり、結局誤解を解かずに、そのまま実行委員会主導でのイベントは開催されないことになった。

残った選手で、「やりたい人が居たらいっしょにやりましょう」という形で、FKTを行う人を募る動きが始まった。
公式イベントが行われなくなったことで、2人は出場を断念した。
残るは3人で、GWにFKTを行う方向で検討を続けていた。

自粛要請

4月18日に、緊急事態宣言の対象地域が全国に広がり、京都や滋賀もすべて緊急事態宣言下になった。
県をまたいだ移動は自粛してください、という要請が出た。

日本山岳会をはじめとする山岳四団体が、共同で「登山自粛要請」宣言を出した。その宣言を追う形で、滋賀周辺の市町からも「登山自粛要請」が出された。
ここに来て、比較的安全だと思われていた登山にも、「自粛ムード」が高まってきた。

当初は、「密」を回避できる登山は、比較的安全なスポーツだと考えられていたが、その登山も自粛要請対象となったのだ。
その根拠は、登山は危険を伴うスポーツであり、もしも仮に登山中に事故などが起こり、病院に搬送されたりすると、コロナ対策で手一杯の医療機関に負担をかける、というものだった。
さらに、登山の前後で交通機関に乗ったり、地元の方との接触機会が発生することで、ウイルスの拡散につながる危険がある、ということも根拠の一つだった。

自粛警察は遠く対岸の火事だと思っていたら、琵琶湖沿いの駐車場もすべて閉鎖され、入り口には警備員が立っているということだった。
鈴鹿山脈の登山口にある駐車場も閉鎖された。
関東の山に関して言えば、登山口にもロープが張られ、登山道自体が閉鎖されているということだった。

あちこちでこのような状況になると、それが当たり前のように感じるのが不思議だった。
もともとコロナが拡がり始めた頃は、「登山は安全だから大丈夫だろう」と感じていた。
ウイルスの感染拡大リスクに限って言えば、そのように感じていた3月でも、あちこちの登山口が閉鎖されている4月でも、それほど変わったわけではない。
特に、人とほとんど会わない登山中のリスクは大きくは変化していなかったはずである。

では何が変わったのかと言えば、まさに「空気」だ。
「世の中でこれほど自粛が進んでいるのだから、登山も自粛するのが当然だ」という空気だ。
決して安易には、「空気」に流されないでおこう、と心に決めた自分ですら、「まあ、それも仕方ないかな」と感じるようになっていることが驚きだった。
そして、FKTの計画を進めている事自体が、何かやましいことをしている犯罪者のような気持ちになってきた。

ゴールデン・ウィークにFKTを実施する想定で準備をしていた丹羽さんも、緊急事態宣言下での実施は行うべきではないと判断し、延期することになった。
最初は延期時期を見計らっていたが、5月中旬くらいに「6月1日から実施」を想定し、スタッフやペーサーを確保していった。
丹羽さんのチャレンジを聞いて、トレイルフェストの田口さんも参加を表明した。

ちょうどその時期に合わせるように、5月21日に京都や滋賀の緊急事態宣言が解除、5月25日に全国で解除された。
山岳四団体からの登山自粛要請も取り下げられ、各自治体の登山自粛要請も取り下げられた。

恐らく、この文章を数年後に読んだら、「だったらFKTを無事に開催できたんだろう」と思われるだろう。
しかし実際は、そうではなかった。

緊急事態宣言が解除され、県をまたいだ移動の自粛要請や、登山自粛要請が解除された状況下で、丹羽さんがFKTを行うことを発表すると、さらに別の意見が出てきた。

ある夜、僕のもとに一本の電話がかかってきた。僕も信頼しているトレイルラン業界の方だ。
その方が言うには、
「ある方から連絡があり、今回の丹羽さんたちのFKTは、実施する時期が早すぎると思うので、どうにか延期させられないか」
という内容だった。
「緊急事態宣言も解除されたし、県外移動や登山自粛要請も解除されているが、なぜ延期すべきだと思われるのですか?」
と質問すると、
「トレイルランというスポーツ全体が、反社会的なスポーツだとみなされる可能性があり、そうなれば業界全体に悪影響が及ぶ」
ということだった。

僕はまず、そのまま何も考えずに丹羽さんに伝えることはしたくないので、一体誰がその要望を仰っているのかを聞いて、その方本人と話したい、とお願いした。
ご本人からは翌日に電話がかかってきて、1時間ほどお話することができた。
電話では、終始穏やかにお話ができたし、話せてよかったと感じた。
内容的には、想定外の内容は特になく、大体「こういうことかな」と予想していた範囲の内容だった。

僕は少し考えて、「お伝えいただいた内容を丹羽さんにお伝えするのは良いですけども、余計やる気になる気もしますよ」とお伝えした。(実際にそうなった気がする)
最初にお電話を頂いた方や、翌日にお話した方からは、「近藤さんはどういうスタンスなんですか?」と質問された。

僕の答えはこうだ。

「まず、山に入るには、常に死ぬリスクがあると思っている。
ある程度のレベルで登山なりトレイルランニングをする人は、そのことを自覚しているべきだと思うし、丹羽さんほどのレベルの人ならば、当然それは分かっているはずだ。
そんな人=要するに普段からある程度死も覚悟している人に、「山に入るな」と言っても仕方がないと思っている。
もしも本人が「やる」と言うなら、僕は止めるつもりはない。
ただ、やるのであれば、なるべく安全にできるように自分ができる努力をするつもりである。」

そのように答えた。

僕は3年前に、親しかった友人を山で亡くしている。
彼女はそれまで続けていた仕事を辞め、もしかしたらちょっと実力を越えていたかも知れない壮大なチャレンジに挑んだ。
そしてチャレンジが始まって2ヶ月後、帰らぬ人になってしまった。

彼女と親しかった共通の友人たちと一緒に、悲しみに暮れ、僕はしばらく山に行く力が沸かなくなってしまった。
僕が山にいる時は今も、心のどこかにその悲しみが内包されている。
悲しみは忘れ去れるものではなく、「死」もまた山の一部としてずっとそこにある。

大きな悲しみはしかし、大きな自然の一部として、山や自然に対する想いにより深みを与えてくれた。
よくよく考えてみれば、僕たちはもう少し、死ぬことに対して自覚的になっても良いと思った。
必ず人間は死ぬ。いずれどこかで必ず死ぬ。
その死をどうやって迎えるか。それまでの時間をどのように過ごすか。その中にあるのが人生だ。

死を覚悟して山に登る人は、死ぬリスクと山で得られる生の充実を天秤にかけ、山で得られる充実を選択しているわけである。
それは、コロナウイルスがあろうがなかろうが、普段からそうであって、むしろ一定レベル以上の山に行く人はそうあるべきだと思う。

これはもはや、生き方の問題である。
どのようなリスクを取り、どのような人生を生きたいのか。
それは本人にしか決められないことだし、他人がとやかく言えるようなことではないだろう。
リスクを一切無くすのが人生の目的なのであれば、車の運転もしない方が良いし、家から一歩も出られなくなる。
しかし、そんなものは僕は人生だとは思わない。

僕の友だちが亡くなった後に、「彼女の挑戦を止めさせるべきだった」と話す人が何人か居た。
僕は、死んだ後にそんな話をするくらいなら、行く前に本当に止めるか、何も言わないか、どちらかだろうと思った。
死んでしまってから評論家みたいなことを言って、一体何になるというのだ。
僕は彼女の挑戦を知ってからの行動を振り返り、やっぱり、彼女が本気で行きたいと思っていたのなら、送り出すしか無かっただろう、と思った。
そうやって挑戦した彼女の生き方を、死んでもなお、肯定したい。
彼女の力を信じて送り出した自分のことも、肯定したい。

もちろん、本人が全く気づいていない危険性があって、それを僕が知っている、というような状況なら話は別だ。
できるだけ早くその危険性について伝えて、対策を取るなり諦めるなりしてもらうだろう。
しかし、僕が知っているリスク要因が、本人も十分に分かっていることしか無いのであれば、それ以上に僕から伝えるべきことは無いと感じた。
だから僕は、そのようなやり取りがあった、ということだけ伝えた。
別に止めることもしなければ、勧めることもしなかった。
丹羽さんに話してみると、同じ話はすでに別のところからも伝わっていたようだった。

僕はただ、できるだけ安全な取り組みになるよう、協力をした。
コースの整備は、畝本さんや、丹羽さん自身が積極的に行い、迷いやすい道の草木を刈り込み、マーキングや反射テープをつけていった。
丹羽さんは、試走の段階で、すでに滋賀一周どころか、1周半くらい回っていたのではないだろうか。
僕もたまに整備に駆け付け、藪を払ったり、マーキングを手伝った。

リスクに関して言えば、コロナに関するリスクよりも遥かに、道迷いやケガ、遭難のリスクの方が高い。
FKTを安全に終わらせるためには、コロナ以外にたくさんやるべきことがある。

そうそう、僕の仕事の話に戻ると、当初春からGWにかけて忙しくなるだろう、と思っていた仕事は、コロナのせいですっかり状況が変わってしまった。
宿泊客の予約がぱったりと途絶え、本来忙しくなるはずが、全く違う状況になってしまった。
ビジネス上は大打撃だったが、ことFKTに関して言えば、随分と時間に融通が効くようになった。

そこで僕はまず、良いGPS端末が無いか探し始めた。
しばらく探していると、まさに今回の取り組みにぴったりの端末が見つかり、メーカーの方と連絡を取り合ってFKTに使えるようにしてもらった。
その端末を使って、選手とサポートの位置情報を把握できるシステムを急ピッチで開発し、間に合わせた。

また、携帯電話が通じない区間での通信手段を確保するために、無線機を買い揃えた。
ついでに、アマチュア無線3級の資格も取った。

結果的に、このGPS端末を使った位置情報システムは大活躍したし、無線も活用できたと思う。
丹羽さんと田口さんのFKTチャレンジは、残念ながら田口さんが途中でリタイアとなってしまったが、丹羽さんはFKTを樹立して完走し、二人の選手に大きな事故はなかった。
取り組みは成功したと言って良いだろう。

SHIGA1 FKTを終えて

僕が何を一番言いたいかというと、コロナのような非日常的な環境下において、普段は知ることができない人々の側面が見られる、ということである。
誤解がないように強く言っておきたいのは、僕は誰かを非難したいのではない。
人にはその人の考え方があるし、特にその考え方を否定したいとは全然思っていない。

今回の出来事を通じて、多くの人が葛藤と行動の選択をしたと思う。
選手がFKTを行うべきかどうか考え続け、決断をしたのはもちろん、それをサポートする人も、応援しようとしていた人も、止めようとした人も、だ。
それぞれの人が、考え、葛藤し、これが正しいのだろうか、と思いながら、自分の行動を選択したはずだ。
僕はその葛藤と、選択した行動に、その人の生き方が現れたと思っている。
FKTを見送る人もいれば、実行する人もいた。
全力でサポートした人もいれば、協力を控えた人もいた。
選手を必死で止めようとした人もいた。
ネットで応援する人もいれば、職場では外出を控えるよう言われているのにこっそり応援に駆けつけた人もいた。
それぞれの行動に、葛藤があったはずだし、その行動に僕はその人の生き方を見た気がする。

人によって考え方、生き方が違うのは当然なのだが、今回のコロナ、そしてFKTを通じて浮き彫りになったのは、普段の平和な生活では分からない違いがあるということだ。

政府が「自粛してください」と言えば、自粛を促すのが一番の目的になる人もいれば、どうにか自分なりに考えて安全性を確保し、活動をする方法を見つけようとする人もいる。

僕は活動する人を見て、できるだけ安全になるよう力を尽くし、手伝いをした。
自分はそういう考え方の人間なんだ、と知ることができた。

そして活動した人によって、歴史は綴られていくのだと思った。

僕が怖いと感じたのは、例えばこのブログを、1ヶ月前は決して書けなかったことだ。
FKTを手伝っていることを、怖くて書けなかった。

幸い、日本での感染拡大は落ち着いたため、徐々に日常生活が戻ってきている。今なら大丈夫だろうと思ってこの文章を書いている。
しかし、1ヶ月前には正直、書く勇気はなかった。

もしも、コロナの感染が収まらず、あと半年、1年間と期間が長引いていたら、一体どれくらい重苦しい世の中が続いていたのだろうか。
その渦中にいると、なかなかその異常さが分からない。
しかし、こんな内容ですら公開できないような状況が、ほんの1ヶ月前、この世界で実際に起きていたのだ、ということを、僕は忘れないでおこうと思う。

誰が良いとか悪いとか、そんなことを言うつもりはないが、なかなかお目にかかれない環境の中で、誰がどのように考えて行動し、自分はその時何を考えたのか。どう動いたのか。

忘れないうちに記しておいても良いだろう。
コロナとFKTが、自分を知るきっかけ、自分と山の関係、周りの人たちのことを知るきっかけを与えてくれた。
ありがとう。

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